<戦前最長>野田醤油労働争議と<関東大震災時>の福田村虐殺事件 千葉県北西部の近代事件~その裏に差別問題が…

野田醤油発祥の碑(野田市内)

長期紛争への前哨戦

私は柏市に転居して以来、柏市はもとより隣接する野田市・我孫子市など(東葛飾地方)の歴史に関心を持ってきた。野田市関連では、戦前最長の218日にも及んだ野田醤油(現キッコーマン株式会社)の労使紛争と関東大震災時に発生した福田村虐殺事件(当時の香川県三豊郡、現観音寺市および三豊市の薬売り行商人15人のうち、妊婦や2歳、4歳、6歳の幼児をふくむ9人が斬殺された事件。妊婦の胎児を含め10人とする見方もある)に強くひかれるものがあった。2つの事件は、地元野田市ではタブー視するか「黙して語らない」傾向にあった。

まず、日本の醸造界を代表し世界に飛躍するキッコーマン(本社・野田市)が、古い因習を断ち切るためにも通過せざるを得なかった「労働争議」を考えてみたい。長期ストの前哨戦から話を始める。

大正8年(1919)1月、野田町(当時)に本社・工場を構える野田醤油の労働者1300人が給与と賞与の増額を求めてストライキに入り、賃金増額の要求が拒否されると辞職戦術をとって多数の労働者が転職した。醤油醸造部門の労働者は、団結とストライキによって賃金の増額や待遇の改善を要求するとの方針を背景に、大正10年(1921)1月野田醤油労働組合を結成した。同年12月には日本労働総同盟支部として全国的な労働組織に所属することになった。

これに対して、野田醤油会社は大正12年(1923)工場経営の方針転換に着手した。だが結果的には、従来よりも労働過重になった。工場内の労働者に不満が鬱積し、労働者側は作業量の見直しや請負制の復活などを要求した。会社側がこれを拒否したため、同年3月16日、組合員2600人がストライキに突入した(第1次争議)。組合幹部が解雇されたことから、組合側は児童たちの同盟休校との「奇策」ともいえる戦術で対抗し、世間の注目を集めた。町には争議団に同情する気運も高まり、泥沼化した争議を解決するため、県知事が調停に入った。4月には労使双方から知事一任を取り付け、調停案による決着がはかられた。作業量の見直しや解雇者の再採用などを文書で確認し、28日に及ぶ争議は終わった。組合側の勝利であった。

長期スト突入と組合の敗北 

昭和2年(1927)9月、野田醤油会社の労働者1358人は、待遇改善を再度求めて立ちあがった(第2次争議)。会社側が要求を拒否したばかりか組合の切崩し策をはかったため、組合はストに突入した。会社側の対応はこれまでになく強硬で右翼団体や暴力集団を動員して脅迫し、次々に組合幹部らを解雇した。紛争は年を越した。翌年に入っても膠着状態が続いた。争議の長期化に焦った一部組合員が暴行行為に走り、再び小学生の同盟休校戦術を取るなど、争議は険悪な様相を呈した。町民は組合の戦術に批判的となった。この間、活発な動きを見せたのが争議団婦人部であった。組合員の妻である彼女らは、東京の日本労働総同盟本部に出向いて争議の早期解決の仲介を依頼するとともに、内務省にまで足を運んで同趣旨の集団陳情を試みた。

ここに驚天動地の大事件が突発した。同年3月組合幹部(副委員長)が東京駅で葉山の御用邸に出発しようとする昭和天皇へ直訴を企てた。この「不敬事件」に衝撃を受けた会社と組合双方とも収拾に動き出し、双方の調停役を務める協調会が斡旋し千葉県知事が立ちあって労使双方による交渉がもたれた。ついに4月30 日争議団は解散を決議した。争議団解団式の後、野田醤油本社2階貴賓室で会社と組合との正式調印が行われた。労働者側は復職者300人、解雇手当総額45万円の調停案を受け入れた。戦前最長という日本の労働争議史上例を見ない大争議にようやく終止符が打たれた。だが復職者は会社側の任意による再雇用であったため、組合側に大きな動揺を与えることになった。

長期争議により失職した組合員とその家族が町を去る哀れな姿が続いた。「灰をまいたような白茶けた野田町の場末の街道を一台の荷車が白日のもとに黙々として進んでゆくのを見た。夫がその梶棒を握り、妻は五つばかりの男の子の手をとりながら車の後押しをしている。車上に積まれた僅かばかりの家財のうえには、何も知らない無邪気な子供が、もとらぬ(おぼつかないの意)言葉で何かしきりに後押しの母に語りかけている。いうまでもなく野田の失業者が家財をまとめて、移動するところであった」(「野田血戦記」)。

野田醤油はその後労使協調路線に大きく舵を切りかえ、「産業魂」を経営の根幹に据えて、世界の「キッコーマン」に飛躍して行くのである。

犠牲者慰霊碑(野田市、円福寺)

関東大震災と福田村事件

福田村事件は、大正12年(1923)9月6日、関東大震災後の大混乱と流言蜚語(デマ)が生み出した社会不安の渦中で、香川県からの薬の行商団15人が千葉県の旧東葛飾郡福田村三ツ堀(現野田市三ツ堀)で地元の自警団らに暴行され、9人が殺害された何とも無残な事件である。

同年9月1日、関東地方は前夜来の風雨も次第に収まり、朝にはところどころでにわか雨が降る程度になっていた。午前11時58分32秒、神奈川県西部から相模湾さらには千葉県の房総半島の先端部にかけての地下で断層が異常に動き始めた。<生き地獄>の予兆である。関東大震災は南関東で震度6(当時の最高震度)を記録した。

関東大震災の関東地方を中心とする犠牲者総数は10万5000人余りに上るとされ、日本の自然災害史上類例を見ない未曾有の大災害であった。(犠牲者総数は資料により異なる)。同大震災では、相模湾の海水が激しい動きを示し津波となって沿岸各地を襲った。大島(現東京都)の岡田で12m、伊豆半島の伊東で12m、房総半島の南端布良(めら)付近で9m、三浦半島の剣ヶ崎で6m、鎌倉で3mの高波となって襲来した。いずれも壁のような津波である。

卑劣な流言飛語と朝鮮人虐殺

情報を遮断された帝都のちまたでは恐るべき暴力が広まっていた。流言蜚語の鬼火がパニック状態の民衆にとりつき、自警団や警察・軍隊の手によって朝鮮人の大虐殺が行われたのである。官憲がデマ情報を公言する中で民衆が起こした蛮行は、都市復興に邁進しようとする政府や東京市(当時)を背後から脅かした。

横浜市内に発生したとされる朝鮮人に関するデマは東京市内に激流の走るように流れ込んだ。おびただしい流言はすべてが事実無根であり、一つとして朝鮮人の来襲・井戸への毒流入などを裏付けるものはなかった。

流言は、通常些細な事実が不当に膨れ上がって口から口に伝わるものだが、関東大震災での朝鮮人来襲説は全くなんの事実もなかった。官憲(政府)の調査によっても確認されている。大災害によって人々の大半が精神異常をきたしていた結果としか考えられない。その異常心理から、各町村で朝鮮人来襲に備える自警団という自衛組織が自然発生的に生まれたのだ。彼らは暴徒集団化していった。

自警団は町村自衛のために法律で禁じられた銃器類など凶器を手に武装した。自警団の数は、9月16 日の調査によると、東京府、東京市で実に1145の数に上った。所持していた凶器は、日本刀、仕込杖、匕首(あいくち)、金棒、猟銃、拳銃、竹槍などであった。暴力の炎は、朝鮮人の虐殺から社会主義者・キリスト教徒の拘束、謀殺、さらには憲兵大尉・甘粕正彦によるアナーキスト大杉栄と内妻伊藤野枝、甥の少年の虐殺へと導火していく。自警団らの狂気による殺害・蛮行は、朝鮮人ばかりか日本人までも巻き込んだのである。

四国からの行商団を襲撃

同年3月に郷里の香川県西部(讃岐地方)を出た売薬(薬は当時の「征露丸」や頭痛薬、風邪薬など)行商団15人は、関西地方から各地を巡った後、群馬県前橋市を経て8月初旬に千葉県西部に入った。9月1日の関東大震災直後、4日には千葉県でも戒厳令が敷かれ、同時に官民一体となって朝鮮人などを取り締まるため自警団が組織・強化された。利根川べりの農村・東葛飾郡福田村(現野田市)でも自警団らが村中を警戒して回った。(以下、「福田村事件」(辻野弥生著、崙書房(流山市)を参考にする。同書は調査の行き届いた良書である)。

「柏市史 近代編」によれば「自警団を組織して警戒していた福田村を、男女15人の集団が通過しようとした。自警団の人々は彼らを止めて種々尋ねるが(言葉が)はっきりせず、警察署に連絡する」、「ことあらばと待ち構えていたとしか考えられない」という状況だった。虐殺は、関東大震災発生から5日後の同年9月6日の昼ごろに起きた。東葛飾郡福田村三ツ堀の利根川近くで休憩していた行商団のまわりを興奮状態の自警団約200人がとり囲んで「言葉がおかしい」「朝鮮人ではないか」などと差別的暴言を浴びせていた。(香川県讃岐地方の方言が通じなかっただろう)。国歌を強制的に歌わせたり、「いろはにほへと」を繰り返し言わせたりした。

福田村村長らが「日本人である」と言っても群衆は耳を貸さず、なかなか収まらなかった。そこで駐在所の巡査が本署に問い合わせをするため現場を離れた。この直後に惨劇が起こった。現場(同村香取神社周辺)にいた旧福田村住人の証言によれば「もう大混乱で誰が犯行に及んだかは分からない。メチャメチャな状態であった」。生き残った行商団員の手記によれば「自警団員は棒やとび口を頭へぶち込んだ」「猟銃の銃声が二発聞こえ」「バンザイの声が上がった」。駐在の巡査が本署の部長と共に戻って事態をおさめた時には、すでに15人中、子ども3人を含めて9人が無残にも惨殺された後だった。その惨劇ぶりは目を覆いたくなるばかりであったという。

遺体は利根川に流され遺骨も残っていないという。駆けつけた本署の部長が、鉄の針金や太縄で縛られていた行商団員や川に投げ込まれていた行商団員を「殺すことはならん」「わしが保証するからまかせてくれ」と説得したことで、かろうじて6人の行商団員が難を逃れ生き残った。

惨殺犯への<甘い>処遇

逮捕されたのは、福田村の自警団員4人と隣接する田中村(現柏市)の自警団員4人の計8人である。8人は騒擾(そうじょう)殺人罪に問われたが、被告人らは「郷土を朝鮮人から守った俺は憂国の志士であり、国が自警団を作れと命令し、その結果誤って殺したのだ」などと自己弁護に終始した。当時の予審検事は、裁判の前から「量刑は考慮する」と新聞記者らに語っていた。彼らが逮捕された頃、田中村の村会議で4人の被告に「見舞金」の名目で弁護費用を出すことを決め、村の各戸から均等に徴収している。

殺人犯も暴徒を出した村も「罪の意識」などカケラもないのである。

判決は、田中村の1人のみ「懲役2年、執行猶予3年」の第二審判決を受け入れたが、あとの7人には大審院で懲役3~10年の実刑判決が出された。だが受刑者全員が、確定判決から2年5カ月後、昭和天皇即位による恩赦で釈放された。事実上の無罪放免である。  

事件の全容は今なお解明されていない。だが「行商団一行の話す方言(讃岐弁)が千葉県の人には聞き慣れずほとんど理解できなかった」「千葉県の人との意思疎通の際に話す共通語も発音に訛りがあり流暢でなかった」などを理由に朝鮮人と見なされ、一連の残虐事件が起こったとされている。当時22歳で生き残った行商団員が残した手記や、当時14歳の行商団員の証言でも、地元の船頭(自警団員)との言い争いの中で「どうもお前の言葉は変だ、朝鮮人と違うのか」と追及され、自警団が集まってきたことは間違いない。当時の防犯ポスターには「あやしい行商人を見たら警察へ連絡せよ・千葉県警」と書かれているものもあり、貧しそうな行商人に対する蔑視や差別の構造もあった。虐殺に走った自警団員の中に「どうせ、どこから来たのかも知れぬ行商人ではないか」という非人道的意識が働いた者もいたであろう。

虐殺の事件現場(野田市、香取神社付近)

事件の全容解明を

戦後も事件は闇に葬られていた。村民は口を閉ざした。だが、昭和54年(1979)に事件の遺族らから「千葉県における関東大震災と朝鮮人犠牲者追悼実行委員会」などに連絡があり、事件の現地調査が始められた。1983年には、平形千恵子氏(千葉県歴史教育者協議会)から香川県歴史教育者協議会の石井雍大氏に情報が伝えられ、共同調査や香川県での聞き取り調査が進んでいき、1980年代後半から新聞などマスメディアでも取り上げられるようになった。

平成12年(2000)3月、香川県で「千葉福田村事件真相調査会」が設立され、同年7月には千葉県「福田村事件を心に刻む会」が設立された。「福田村事件を心に刻む会」の設立総会では、事件当時5歳で、戦後福田村の最後の村長になった新村勝雄(東京高等師範(現筑波大学)中退、野田市長を経て社会党衆議院議員)が「個人としてですが、被害に遭われた香川県の方々に心からおわび申し上げます。事件の真相究明は今を生きる私たちの役目です。地元の一人として最大限の努力をしたい」と声を震わせながら語った。村長の人道主義に立った勇気ある発言であった。

平成12年7月、野田市で「福田村事件を心に刻む会」が設立され、平成15年(2003)には犠牲者の追悼慰霊碑が野田市三ツ堀の円福寺境内に建立された。

参考文献:「歴史の闇にいま光が当たる――福田村事件の真相 第1集」(千葉福田村事件真相調査会編・発行)、「福田村事件 ――関東大震災・知られざる悲劇」(辻野弥生、崙書房)、「柏市史」、筑波大学附属図書館文献。

(つづく)

 

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