JCO臨界事故、30日で19年 両親に代わり 語り継ぐ 損賠原告夫妻死去 長男「2人の人生変えた」

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両親の遺影がある仏前で、手を合わせる大泉実成さん=日立市久慈町、鹿嶋栄寿撮影

東海村の核燃料加工会社ジェー・シー・オー(JCO)で発生した臨界事故から30日で19年。現場近くの工場で被ばくし、健康被害を受けたとして同社などに損害賠償を求めた訴訟の元原告、大泉恵子さん=日立市=は今年1月15日、78歳で死去した。共に訴えた夫の昭一さん(享年82)も2011年に亡くなっており、被害を訴えた原告夫妻が逝った。「事故は2人の人生を変えた」。訴訟で支えた長男の実成さん(56)は両親に代わって事故を語り継ぎ、風化防止を訴えている。

事故では、作業員2人が亡くなり、周辺住民ら667人が被ばくした。

1999年9月30日。作家業の実成さんは都内に事務所を構え、実家のある日立市と往復する生活を送っていた。「原子力事故が起こったらしい。国道6号が一部閉鎖し、JRも動いていない」。夕方、妻の電話で事故の一報を知った。

■年間限度の6倍

JCO東海事業所転換試験棟から約130メートル。両親が営む自動車部品工場があった。両親は被ばく検査を受けたが、「大丈夫です」と言われ、帰宅した。

だが、恵子さんはその日の深夜から激しい下痢などに見舞われた。一日中リビングで横たわり、仕事に行けなくなった。事故のニュースを見たり、現場近くを通ったりするだけで動悸(どうき)が激しくなり、パニック状態に陥った。後に、うつと心的外傷後ストレス障害(PTSD)と診断された。実成さんは「活発で働き者だった母親が一気に病人になった」と振り返る。父の昭一さんも持病の皮膚病が悪化し入院。2001年に工場を閉めた。

国の調査で恵子さんは6・5ミリシーベルトの被ばくと推定された。一般人の年間被ばく限度の約6倍に当たる。

同様に体調を崩した住民が10人ほどいた。住民は同社に補償を求めた。同社は健康被害と事故の因果関係を認めず、交渉は決裂。住民は損害賠償を求めて提訴することになった。

■「無駄ではない」

しかし、それまで団結していた住民は分裂。「親戚が原子力の仕事をしている」「訴えたら、村に住めなくなる」。被ばく差別を恐れる人もいた。結局、原告は両親のみとなった。

「普通の災害は皆が一緒に復旧、復興に向かうが、原子力(事故)だと立場の違いによって対立し、同じ方向に動けない」。実成さんは、原子力界の影響力を痛感した。

02年に水戸地裁に提訴した訴訟は10年、両親の上告を最高裁が退け、敗訴した。この間、実成さんは裁判を支援する会の事務局として毎回傍聴し、進捗(しんちょく)を伝える会報を書いた。両親は亡くなるまで全国各地を歩き、原子力事故の悲惨さを訴え続けた。実成さんは「裁判は無駄ではなかった。両親にはよく頑張りましたねと声を掛けたい」と話す。

■犠牲者に黙とう

28日朝、村役場。事故で亡くなった作業員2人に、職員らが1分間の黙とうを捧げた。山田修村長は約100人を前に訓示した。

「役場職員でも当時を知る者は3割しかいない。口頭で当時の経験や教訓を語り継ぐことが難しくなっている。臨界事故を経験した村だからこそ、原子力防災に常に問題意識を持ち続け、感度を高めなくては住民の信頼は得られない」

JCOは現在、ウラン廃棄物や施設の維持管理を続けている。(斉藤明成)