「黎明の鐘」となれ!~<日本マラソンの父>金栗四三と恩師・嘉納治五郎~ 日本初の五輪参加~その情熱と師弟愛~

金栗四三(日本初のオリンピック出場選手)

2年後に東京オリンピック大会を控えて、戦前オリンピック大会初出場をはたした金栗四三(かなぐり しぞう、1891~1983)を語りたい。同時に師・嘉納治五郎との師弟愛にも触れたい。(金栗四三には、「かなくり しそう」との呼び方もある)。金栗を知らない読者も少なくないのではと考え、その功績を略記する。彼は近代日本を代表する名マラソン選手で、師範学校教師、熊本県初代教育委員長など公職を歴任した。箱根駅伝の実現に尽力し、日本に高地トレーニングを導入した。日本マラソン界の発展に大きく寄与するなど、日本の「マラソンの父」と称される(全国マラソン連盟会長、日本陸上競技連盟顧問でもあった)。

彼は熊本県玉名郡春富村(現和水町)出身で、旧制玉名中学(現県立玉名高校)を卒業後、明治43年(1910)、東京高等師範学校(現筑波大学)に優秀な成績で入学する。将来は旧制中学か高校(現在の高校か大学)で歴史・地理を教授するのが夢であった。彼はここで嘉納校長と宿命的な邂逅をする。
明治44年(1911)、師範学校生金栗は翌年に開催されるストックホルムオリンピックに向けたマラソンの予選会に出場し、マラソン足袋で当時の世界記録(当時の距離は25マイル=40.225km)を27分も縮める驚異的な記録(2時間32分45秒)を出し、短距離の東京帝大学生三島弥彦と共に日本人初のオリンピック選手となった(後述)。

日本、オリンピックへ参加

ここでオリンピック大会への日本参加への道のりを略記したい。(以下、「金栗四三」(佐山和夫)を参考にし、一部引用する)。

フランスの男爵で世界オリンピック大会の提唱者クーベルタンが、日本をオリンピックに招きたいと考えた時、真っ先に嘉納治五郎(講道館創設者、柔道師範、東京高等師範校長)に連絡を取ったのは正しかった。オリンピック参加を実現するためには、その国に国内のオリンピック委員会を創設してもらわなければならない。それにはよほど権威・見識ある立派な人物でなければ駄目なのは、いうまでもない。日本の場合、いったい誰が適任か、それはもはや明らかだった。嘉納治五郎への依頼は、クーベルタンからだけではなかった。開催国スウェーデンからも、駐日代理公使E・G・サリンを通じて参加を勧められた。これにより日本におけるオリンピックへの動きが具体的に始まる。

日本代表を決めるといっても、その選考母体をどうするか。嘉納治五郎はまず文部省(現文部科学省)と相談した。文部省は興味を示さなかった。オリンピックといっても、一種の<スポーツ・ショー>だろう程度の認識しかない。それに、まだ国民の体育ということが盛んに叫ばれる時代でもなかった。ならばと、嘉納治五郎は次に社団法人日本体育会(後の日本体育大学の母体)に、この話を持ち込んだ。これは明治24年(1891)に創設された組織で、国からの援助も受けていた。しかし、その目的が、体育専門の教師を育成することとあって、趣旨の違いから協力を断られた。
ここで嘉納治五郎は新たな団体を立ちあげることにした。

賛同したのは、東京帝国大学・第一高等学校(いずれも現東京大学)、東京高等師範(現筑波大学)、早稲田大学、慶応義塾大学、明治大学などで、明治44年(1911)7月、大日本体育協会(後の公益財団法人日本体育協会、以下体協)が誕生し、嘉納自らが初代会長となった。そして、この体協が各校に呼び掛けて、日本で初めてのオリンピック予選会が11月に開かれることになった。

日本初のオリンピック予選会

予選会の場所は羽田運動場である。トラック1周は400m。幅は9.09m。半円の曲線路は、欧米の方式に従い、走者が走りやすいように、外側に高く内側に低く、2尺5寸(約76cm)の勾配がつけられていた。

オリンピックに参加する種目を短距離とマラソンだけと、初めから決めていたわけではなかった。体協としては各種目で世界の舞台に出られる選手がいれば、出させるつもりでいた。中距離走各種の他、走り幅跳び、走高跳び、棒高跳びの他、立ち幅跳び、立ち高跳びなども行われていることでもわかる。

同年11月19日、いよいよオリンピック予選会(選手選考会)の当日となった。呼びかけに応じて全国から集まった選手は91人だった。参加条件の一つに、「学生(旧制中学卒以上の学力)たり紳士たるに恥じない者」があげられ、健康保証書の提出が求められた。

審査長には嘉納自らがなり、各学校からの数十人が役員となった。呼び物は25マイル・マラソンという当時の日本では初めての長距離走だった。それは羽田競技場から東神奈川までの往復だった。参加したのは12人。金栗四三は足袋をはいていた。着ていたのは長そでシャツである。膝の下のまである長ズボンだった。腹ごしらえは、パン半斤と、卵2個だった。金栗の思い出である。

「小雨が朝から続いて一日やまなかった。皆にくっついてスタートしたが、郊外に出るまでに200mくらい離された。速かろうが、遅かろうがかまわず走っているうち復路でお前は2番だと聞いてがんばりだし、ゴール前2000mのところで佐々木(北海道)選手を抜いて飛び込んだ」(朝日新聞1954年12月1日付)。

記録は2時間32分45秒。足袋は擦り切れていて、半分以上が裸足のままだった。かかとに血豆ができていて、彼はこの後1か月程歩行にも不自由することになる。何と彼はただの1回のマラソン経験でストックホルムへ日本代表として行くことになったのだ。選手選考会で選ばれたのは、金栗以外には短距離走者の三島弥彦(東京帝大学生)あるのみであった。

「黎明の鐘」になれ!

オリンピック予選会での記録については、特に金栗四三のものに注目が集まった。世界記録が2時間59分45秒だとされていたから、金栗四三の記録(2時間32分45秒)はそれを27分も縮めたものと伝えられ、皆が興奮した。

「金栗選手、世界記録を破る」と書いた号外を出した新聞もあった。一部に「距離の計算が間違えているのではないか」との疑いも出たこの時、嘉納会長の談話にこうある(「日本スポーツ創世記」)。
「里程の測定は、当然測定器を以て実施に測定するのが本当であるけれども、それにしては余りに金と日時がかかるので、永年そのことに従事していた京浜電気会社の中沢工学士に相談して、参謀本部の2万分の1の地図においてコンパスを以て精密に測量してくれた。私もまず実際に25マイルあるものと信じるほかない。…」

日本代表の金栗選手にオリンピック日本選手団・嘉納治五郎団長自らが次のように言い聞かせた。

「我が国はまだ各方面とも欧米の先進国に遅れ、劣っている。取り分け遅れている部門に体育スポーツがある。オリンピックは欧米諸国参加のもと、すでに20年前に開催されている。私は高等師範の校長として全生徒に放課後に1時間の課外運動をやらせ、君も徒歩部員として毎日走っているが、日本の他の大学ではほとんどこんな時間は与えていない。君の準備が十分ではなく、万一ストックホルムのマラソンで敗れたとしても、それは君一人の責任ではない。何事によらず先覚者たちの苦心は、昔も今も変わりはない。その苦心があって、やがては花の咲く未来をもつものだ。日本スポーツ発展の基礎を築くため、選手としてオリンピック大会に出場してくれ・・・」、「最善を尽くせばいいのだ」(「嘉納治五郎」嘉納治五郎先生伝記編纂委員会)。金栗は「私には荷が重すぎる」と逡巡した。問題の渡航資金は嘉納が各方面に呼び掛けて工面した。

金栗四三の気持ちは変わらなかった。嘉納はさらに言葉をついで彼に翻意を促した。有名な「『黎明の鐘』になれ!」の言葉は、この時のものだった(「走れ25万キロ」より)。

「何事も初めはつらい。自信もなかろう。しかし苦労覚悟で出かけていくことこそ、人間として誇りがあるのではなかろうか。スポーツにしてもしかり、捨て石となり、いしずえとなるのは苦しいことだ。敗れた時の気持ちはわかる。だが、その任を果たさなければ、日本は永久に欧米諸国と肩を並べることが出来ないのだ。このオリンピックを見逃したら、次の機会は4年後にしかやってこない。もう4年の空白を指をくわえて待つ時期ではないのだ。金栗君、日本のスポーツ界のために『黎明の鐘』となれ!」

オリンピックに初出場

明治45年(1912)のストックホルムオリンピックでは、金栗はレース途中で日射病により意識を失って倒れ、近くの農家で介抱される。金栗が目を覚ましたのは既に競技が終わった翌日の朝であった。このため金栗はレースを諦めざるを得ず、そのまま帰国した。

金栗が倒れた直接の理由は日射病であるが、それ以外にも以下のような要因があった。

・日本は初参加でありスケジュール調整や選手の体調管理など、選手サポートのノウハウが無かった。
・当時、日本からスウェーデンへは船とシベリア鉄道で20日もかかり、多くの選手は初の海外渡航であるなど負担が大きかった。
・スウェーデンは緯度が高くオリンピック開催期間はほぼ白夜であったため、不慣れな日本人には睡眠に支障があった。
・当時のスウェーデンには米がなく、予算の都合で人数分を持参するのも難しかったなど、食事の面で苦労した。
・マラソンの当日は金栗を迎えに来るはずの車が来ず、競技場まで走らなければいけなかった。また最高気温40℃という記録的な暑さで、参加者68名中およそ半分が途中棄権しレース中に倒れて翌日死亡した選手(ポルトガルのフランシスコ・ラザロなど)まで発生するなど過酷な状況であった。

消えた日本選手

マラソン中に消えた日本人の話は地元で開催されたオリンピックの話題の一つとしてスウェーデンではしばらく語り草となっていた。また、マラソンを途中で止めた理由として、単にソレントゥナ(Sollentuna)のとある家庭で庭でのお茶会に誘われ、ご馳走になってそのままマラソンを中断したという解釈も示された。

当時の金栗はランナーとして最も脂ののった時期であり、大正5年(1916)のベルリンオリンピックではメダルが期待されたが、第一次世界大戦の勃発で開催中止となり出場することができなかった。その後、大正9年(1920)のアントワープオリンピック、大正13年(1924)のパリオリンピックでもマラソン代表として出場した。成績はアントワープで16位、続くパリでは途中棄権に終わっている。

大正6年(1917)、駅伝の始まりとされる東海道駅伝徒歩競走(京都の三条大橋と東京の江戸城・和田倉門の間、約508km、23 区間)の関東組のアンカーとして出走した。大正9年(1920)、第1回東京箱根間往復大学駅伝競走(箱根駅伝)が開催され、金栗もこの大会開催のために尽力している。第1回大会の優勝校は金栗の母校・東京師範学校だった。

54年と8カ月6日5時間32分20秒3

昭和42年(1967)、スウェーデンのオリンピック委員会からストックホルムオリンピック開催55周年を記念する式典に招待された。ストックホルムオリンピックでは棄権の意思がオリンピック委員会に伝わっておらず、「競技中に失踪し行方不明」として扱われていた。記念式典の開催に当たって当時の記録を調べていたオリンピック委員会がこれに気付き、金栗を記念式典でゴールさせることにしたのである。招待を受けた金栗はストックホルムへ赴き、競技場をゆっくりと走って、場内に用意されたゴールテープを切った(日付は1967年3月21日)。この時、「日本の金栗、ただいまゴールイン。タイム、54年と8カ月6日5時間32分20秒3、これをもって第5回ストックホルムオリンピック大会の全日程を終了します」とアナウンスされた。54年8カ月6日5時間32分20秒3、という記録はオリンピック史上最も遅い!マラソン記録であり、今後もこの記録が破られることは無いだろう。金栗はゴール後のスピーチで「長い道のりでした。この間に孫が5人できました」と歓喜の声をあげた。

金栗が残した有名な言葉として「体力、気力、努力」が知られている。

晩年は故郷の玉名市で過ごし、昭和58年(1983)11月13日92歳で逝去した。金栗の功績を記念して富士登山駅伝及び東京箱根間往復大学駅伝競走(箱根駅伝)に「金栗四三杯」が創設されている。富士登山駅伝では一般の部の優勝チームに対して金栗四三杯が贈呈されている。また、箱根駅伝では2004年より最優秀選手に対して金栗四三杯が贈呈されている。他に「金栗記念選抜中・長距離熊本大会」や「金栗杯玉名ハーフマラソン大会」のように「金栗」の名を冠した大会もある。金栗は紫綬褒章を授与された。玉名市名誉市民である。

参考文献:「嘉納治五郎」(講道館)、「金栗四三」(佐山和夫)、「日本スポーツ創世記」、筑波大学付属図書館資料。

(つづく)

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