「明治の精神」願い下げに 女性活躍でなく女性閉め出し

By 江刺昭子

 

9月20日の自民党総裁選で連続3選を決め拍手を受ける安倍首相。周囲には男性ばかりが目立つ

安倍晋三首相は3年前、地元の山口県で支持者を前に話したそうだ。明治50年は長州軍閥を代表する寺内正毅、100年は叔父の佐藤栄作が首相だった。わたしは県出身8人目の首相である。がんばれば、明治150年も山口県の首相になると。

 今年は明治150年。首相は折から放映中のNHK大河ドラマ「西郷どん」が薩長同盟をえがいたその日、鹿児島県桜島を背景に総裁選立候補を表明するなど、がんばって総裁に三選された。これで、明治改元の日にあたる10月23日も首相の座は安泰になり、政府主催の「明治150年式典」は、長州自慢になるかもしれない。

 政府の「明治150年」サイトには「明治の精神に学び、日本の強みを再認識する」「能力本位の人材登用の下、若者や女性が、外国人から学んだ知識を活かし、新たな道を切り拓き」といった文言が並んでいるが、「明治の精神」とは何だろう。能力本位の人材として生かされた女がどれだけいただろう。

 首相が今年の年頭所感で女性活躍の例に挙げた津田梅子は、1871年に米国への官費留学生として満6歳で渡航した。しかし、11年後に帰国したときには正式な働き場所もなかった。いったい何のために勉強したのかと、米国で寄宿したアデリン・ランマンに縷縷(るる)書き送っている(大庭みな子著『津田梅子』)。男子留学生たちはそれ相応の地位を与えられ、海外の新知識を役立てるような職務についていたのに。

 日本の女子教育が良妻賢母主義に傾いているのを案じた津田は1889年、私費で再びアメリカに学んだ。帰国後は女子英学塾(現・津田塾大)を創立して専門教育による自立した女性の養成に力を注ぐのである。

 ちなみに幕末から明治時代、多くの官費留学生が欧米に送り出されたが、『幕末明治海外渡航者総覧』によると、男656人に対して女はわずかに13人、2%に満たない。しかも能力を生かす受け皿は女子教育分野だけで、政治、司法、官途、いずれの道も固く閉ざされていた。

 津田が再渡米した翌1890年には、自由民権運動が要求してきた国会が開設されたが、選挙制度が理不尽きわまりない。国会議員の選挙人も被選挙人も国税15円以上を納めている男性に限られ、女性には参政権がなかった。そればかりか日本最初の議会が開かれる直前に公布された「集会及政社法」は、女性は政党に入ってはいけない、政治集会を催してはいけない、聴いてもいけないと、徹底して女性を政治から閉めだした。

 薩長の専制政治に対抗して国会開設や憲法制定を求めて闘った民権運動の担い手の男たちも、女の民権には無関心だった。全国の民権グループが作成した私擬憲法草案(民間憲法草案)が多数ある。その中でもきわめて人権意識が高いと評価されているのが、現あきるの市の学習グループが作成した五日市憲法草案。

 先年、あきる野市を訪れた美智子皇后が「19世紀末の日本で、市井の人びとの間にすでに育っていた民権意識を記録するものとして、世界でも珍しい文化遺産ではないかと思います」と発言し注目された。しかし、多くの条文を人びとの権利にさいているこの草案でも、未成年者、無産者とともに成人女性には選挙資格を認めていない。女を人として扱わない、そんな「明治の精神」は願い下げにしたいものである。

 その後、明治末期の社会主義者の運動、それを引き継いだ市川房枝、平塚らいてうら新婦人協会のねばり強い運動によって、1922年に政治集会を主催したり傍聴する権利だけは回復したが、参政権も結社の権利も敗戦後までお預けだった。

 無権利状態が長く続いたため、政治は男がするものという意識が根強く、政治的にマイノリティーの状態は今も解消されていない。野田聖子氏らが超党派で立ち上げた議員連盟が主導して「政治分野における男女共同参画推進法」(候補者男女均等法)が今年5月16日、やっと成立した。国会議員や地方議員の選挙候補者数をできるだけ男女 均等になるよう各党に努力義務を課す法律だが、強制力はない。今後、各党の人権感覚がどれほどのものか、問われることになろう。

 第4次安倍改造内閣の女性閣僚はたった1人。女性参政権が実現して72年もたつのに、明治維新を唱導した山口県は女性国会議員を1人しか選出していない。薩長同盟が生きているわけではないだろうが、鹿児島県はゼロである。

 安倍政権は女性活躍を重点政策に掲げている。「明治の精神」として、「道を切り拓」いた女性を称揚する。ならば、この組閣はどうしたことか。来年の参院選では是非、首相のお膝元の山口県から女性候補を擁立して、手本を見せてもらいたい。(女性史研究者・江刺昭子)

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