「大変、でも楽しい」長崎くんち 踊町の女性3人振り返る 衣装準備、食事、給水… コッコデショを陰で支え

 長崎県長崎市の諏訪神社の秋の大祭、長崎くんち(7~9日)は、今年が平成最後の開催。7年に1度演(だ)し物を奉納する踊町(おどりちょう)では、老若男女が総出で晴れ舞台を盛り上げる。本番を前に、今年の踊町の一つで「太皷山(コッコデショ)」を披露する椛島町(樺島町)のお年寄りの女性3人に、戦後の昭和から平成に至るくんちの思い出や踊町の裏話を振り返ってもらった。

 記者が質問すると、思い出話に花が咲いた。

 「婦人部は裏方の中心」
 「大変だったんですよ」
 「でも、みんな仲良しで、一緒に旅行に行ったりして楽しかった」

 懐かしそうに、楽しそうに話すのは鳥羽瀬光子さん(90)、山口富久代さん(88)、執行静子さん(84)の3人。いずれも結婚や移住を機に、長年同町に暮らしている。

 ■サーカスも登場

 鳥羽瀬さんは長崎市東古川町出身で、3歳の時に同町の先曳(さきびき)で初出演。戦時中は佐世保市にいたが、終戦直後の1945年8月末に樺島町へ移った。「くんちはそりゃもう楽しみで。昔は通りに屋台がずらっと並んで、サーカスが来ていた頃もあった。おおっぴらに新しい着物も買えたし、ほかの人の着物を見るのも楽しみで」と、若い頃の記憶に声を弾ませた。

 執行さんは58年、福岡市から嫁いだ。郷里も祭りが盛んだが「長崎は博多とまた違った雰囲気。お嫁に来た頃は、今よりもすごくにぎやかだった」と言う。

 山口さんは、初代から100年近く続く長崎発祥の生け花と煎茶の流派、文人流の4代目家元を5年前まで半世紀務めた。町内で医療用品会社を営み、56年から同町在住。「くんちの時は周辺が配達もできないくらいにぎわう」と話す。

 ■メモでびっしり

 同町の演し物に出演するのは男性だけで、自治会婦人部が衣装、道具、小物の準備、稽古や本番の後方支援などを受け持つ。鳥羽瀬さんは踊町だった90年に副部長、97年に部長を務めており、その際の記録ノートは資材を購入したメモや領収書でびっしり。衣装の新調を手配した年も。素材の絹の生地の重さ(匁(もんめ))が大切で「軽いと、脱いで投げ上げた時にふわっと飛ばない」(執行さん)という。

 本番の3日間は、踊りや庭先回りのコースに沿い、休憩場所や食事、給水の準備に当たった。「担ぎ手が水を飲む所を用意するのが一番の仕事。以前は近くで水をもらえる所を探し、リヤカーで休憩場所まで水を運んでいた」と執行さん。山口さんも「50人くらいに飲ませるから量がすごい。レモンを箱で買って砂糖漬けを作った」と振り返る。鳥羽瀬さんは「担ぎ手はきついから、足を伸ばして休める畳敷きの食事場所を準備した」と気遣いを語る。

 ■「伝統を守って」

 太皷山や采振(さいふり)で子どもが出演する年は、親が正装で付き添う。「きちんとした着物を着て傘もおそろいで、きれいに並んで歩いた。孫も出演した」と山口さん。執行さんは「たしか私の孫も一緒で」と相づち。鳥羽瀬さんは「うちの息子は年が合わず『太鼓で出たかった』と腹かきよった(怒っていた)」と笑った。

 「応援も一生懸命。それで、担ぎ手はやっと元気が出る」「とにかく町内のためにと女性も一生懸命だった」-。話題は尽きない。

 同町で、踊町を支える婦人部の役割は今も変わらない。町自治会の浦晧)会長(79)は「準備から本番まで婦人部が重要な役割を担っていて、女性なしでは成り立たない」と話す。鳥羽瀬さんは「くんちも変わっていくかもしれないけど、伝統は守っていきたい。皆さん今回も一生懸命やっている」と、本番へ期待を膨らませた。

以前の写真を手に長崎くんちの思い出を振り返る、右から山口さん、執行さん、鳥羽瀬さん=長崎市樺島町
1961(昭和36)年、樺島町が年番町を務めた際に撮影されたとみられるくんちの記念写真(鳥羽瀬光子さん提供)

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