「望まない妊娠」に教育勅語は?

By 佐々木央

 

就任会見で発言する柴山文科相

教育勅語は、父母に孝行し、兄弟は仲良く、友達を信じなさいなどと説く。これに「謙遜」(「恭倹」という難しい言葉を使う)や「博愛」が続き、さらに公益や社会のために生きるよう求め、国家の一大事には天皇・皇室のために勇気を奮って尽くせと命じる。

 これらの徳目の問題点として、後段の天皇中心主義に収れんしていくことが指摘される。それを批判されるなら「天皇中心」を抜きにすれば、誰も文句のつけようがないだろう。それが勅語を評価する人たちの言い分だ(天皇中心主義を本当にやめようと考えているのかは明らかでない)。

 果たしてそうだろうか。なんの葛藤もない家族、摩擦のない友人関係はほとんどあり得ない。お互いがより良く生きたいと願えば、溝はかえって深まるかもしれない。そういう中で、常にこうした徳目に従うのは難しい。

 子どもや若者に関わる現場で出会った人たちの話をしたい。

 20歳の女性、タエさん(仮名)は父子関係に問題があり、長く施設で暮らしてきた。少年院に送られたこともある。更生保護施設を出て自活しようとしたがうまくいかず、生存ぎりぎりの状態に陥る。

 再犯防止のNPOにつながって救われ、間もなく妊娠した。父親は16歳の少年。恋愛感情はない。2人で育てるという意思もない。さて、どうするか。

 支援するNPO代表の男性の頭をよぎったのは「望まない妊娠」という言葉。そして、生まれてくる子どもも施設で育つ「負の連鎖」だった。1人でご飯もちゃんと作れないような子が、どうして子どもを育てられるのか。

 しかしタエさんと話し合い、その考えを改める。タエさんはこう言った。

 「私は不幸じゃない。養護施設で生まれ育ったから不幸とは言えない。幸せかどうかはその子自身が決めることだと思う」。訴えるような言葉が続いた。「私には本当の家族がいない。いま、このおなかにいる子だけが私の家族なんです」

 男性は「言葉の重さを感じた」と話す。勝手に決めつけたことを反省した。そして「産むというタエの選択を尊重し、応援したいと思う」と話した。

 困難を抱える子どもたちと向き合ってきた女性弁護士は「原点は私たち支援者が無力であることです」と述懐した。

 彼女は虐待を受けている子どもの駆け込み寺をつくった。身も心もぼろぼろになった子どもの回復のために療養型ホームを用意した。自立援助ホームも開設している。多くの子どもを救った。それなのに「無力」とはどういうことか。

 いじめや虐待、非行、自傷…。苦しんでいる子どもたちが、なぜそうなったのか。「聞き取っていくと、彼らの実体験には想像を絶するようなひどい例や悲惨なケースがある。育ってくる中で大変なことを背負ってきたからこそ、いま問題行動を起こしているんです」。親子関係や学校の問題が深く関わっていた。

 支援して、子どもが生きる元気を持ち始めると、大人は望ましい方向に背中を押す。すると子どもは輝きを失ってしまう。

 「傷ついて、生きていくのがやっとと思える子でも、一人の人間としての誇りがある。自分で選択したいという思いがある。大人の正義や価値観を押しつけたら、子どもは輝けなくなります」

 あなたはどうしたいのと尋ねると、子どもは驚くほど一生懸命考え、答えを出す。

 「どんなに傷ついても、子どもの人生は子ども自身が歩いていくしかない。子ども自身が選び、失敗しながら、闘っていくしかない。そうやって生きていくことが誇りになるんです」

 虐待から救いだした少女が「私がいないとお父さんは駄目になる」と親もとに帰って行くこともある。それでも寄り添い、支える。「無力」とはそういう意味だった。

 幼いころに両親が離婚、母親から切り離された21歳の青年は、父親から虐待を受け、2歳から児童養護施設で暮らした。週末ごとに帰宅し、試験的に長く一緒に暮らしたこともあったが、身体的な暴力に加え、言葉でも傷つけられた。

 「スリッパの向きが違う、電気がつけっ放しだ、言葉遣いがなってないと。おまえが悪いと言われ続けました。本当に自分が悪いと思って反省しないと許してもらえなかった」

 小6の時、台所で長時間叱られ「あの包丁で自分を刺せば死ねる」と思ったことを覚えている。スポーツ選手への夢も禁じられた。

 いま、子どもの貧困問題に取り組むNPOで、スタッフとして働く。支援者は自分の思いを押しつけてはいけないと思う。「例えば学習支援。自分の嫌いな勉強を『未来が開けるから』と応援されても無理です。彼はサッカーやバスケがしたいのかもしれない。それを認め、そこから勉強にも目を向けていくようにしなくちゃいけない」

 自分が理想とする支援者に近づこうとすればするほど、悔しい気持ちがわく。自分はそういう人に出会えなかったから。

 親への思いも複雑だ。「ずっと家に帰りたかったし、親が好きだった。手をつないでいる親子を見ると、いまも苦しい」

 教育勅語に戻る。こうした子どもや若者たちの困難について考え、行動する上で、勅語の徳目は何の助けにもならない。なぜか。決定的に欠落していることがあるからだ。

 例えば、教育基本法の前文は「個人の尊厳」という旗を掲げる(法改正によってずいぶん余計な旗が加わったが)。第1条は教育の目的を「人格の完成」だと宣言する。ところが教育勅語には「私(個)が生きる」ということがない。国(天皇)のために死ねる国民をつくるための文章だから、当然と言えば当然か。

 生きていく中で直面する困難は、マニュアルや徳目で乗り切れるほど簡単ではない。誰もが迷い、悩み、傷つきながら生きている。道を探している。「道徳」という教科が意味を持つとすれば、教師と子どもが、その営為を共にするということにしかない。(47NEWS編集部、共同通信編集委員佐々木央)

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