黒い赤ちゃん「次の子も」 底知れぬ不安 カネミ油症次世代の今・1 2世ら50年目の枷語る

 半ば諦めにも似た感情が心を覆っている。長崎県内本土に暮らすカネミ油症の認定患者、永井達也(46)は生まれてこのかた、体調の良い日を過ごした記憶がない。強い倦怠(けんたい)感、突然の鼻血、関節の痛み-。日々何かしらの症状が、もはや“普通”になっている。「治療法の解明は結局、永遠のテーマで終わるんでしょうね。出口はないんですよ」。そう言って寂しげに笑みを浮かべた。

「カネミ油症に出口はない」。そう語った油症2世の永井達也(仮名、手前)は、母が語る50年前の状況をうつむき加減に聞いた=県内

 達也は油症患者の母から生まれた「油症2世」。苦しみの連鎖の始まりは、彼がまだ生まれてもいない半世紀前にさかのぼる。
 1968(昭和43)年。当時27歳の母久代は夫、幼い長男、長女と4人で暮らしていた。2月ごろ、子ども2人を連れて長崎市に遊びに出掛けた帰り、偶然目に留まった市内の商店で食用油の一升瓶を買った。通常より数十円安かった。天ぷらなどに使い、春にはなくなった。
 5、6月ごろ、異変が起き始める。体がだるくなり、無数の吹き出物が子ども2人は頭皮や全身に、久代は顔中にできた。つぶすと白く生臭い膿(うみ)があふれ出た。夫は背中に集中。ズキズキと痛み、あおむけで寝られないほど。子どもたちも痛くて泣いた。大量の目やにが出て、朝起きてすぐには目を開けられない日も。爪は黒く変色し、波打って変形。切っても切っても元の形や色には戻らなかった。歯茎は紫に変色した。
 10月、カネミ倉庫製の米ぬか油を食べた人たちに吹き出物などが特徴の「奇病」が相次いでいると、新聞やテレビが一斉に報じ始めた。久代は通っていた皮膚科で恐る恐る関連を尋ねたが、「カネミはこんなもんじゃない」と医師に一蹴された。
 久代は当時、次男の出産を控えていた。達也の4歳上の兄に当たる。10月下旬、きつい体をおして産んだ赤ちゃんは皮膚が黒ずんでいた。1700グラムの未熟児。泣き声は弱々しかった。「あの油のせいだ」。久代の中で、家族の病と油症がはっきりと結び付いた。産婦人科医に勧められて検査を受け、すぐに家族5人が油症認定された。
 だが、その後も一家の症状が回復する気配はない。特に、幼い次男は症状が重かった。成長が遅れ、肺炎や腎盂(じんう)炎、ぼうこう炎などを次々発症。夜中に病院へ駆け込むこともしばしば。70年、夫が交通事故で亡くなる悲劇にも見舞われた。
 久代はやがて再婚。そして新たな命を授かった。妊娠中、目の前の幼い次男は相次ぐ病でつらそうにしていた。「次の子も黒い赤ちゃんとして産まれてくるのだろうか」。底知れぬ不安が広がった。

◎2世の苦悩 ひた隠し 付きまとう病と偏見

 カネミ油症事件の発覚から4年後の1972(昭和47)年秋。達也は、県内本土に暮らす油症患者の久代の末っ子、三男として産まれた。
 達也の肌は、「黒い赤ちゃん」として生まれた4歳上の兄に比べると少しだけ程度は軽かったが、やはり浅黒かった。0歳で油症認定された。風邪をひきやすく、幼少期から病院に通う日々だ。

「50年もたったのに、今更掘り返したくない」。油症2世の永井達也(仮名)は率直な思いを吐露した=県内

 汚染油を直接食べていない次世代患者は、母親の胎盤や母乳を通じて油症の原因物質ダイオキシン類が移り、さまざまな症状を引き起こしているとみられる。
 達也は物心がついた時から、体調の悪さが付きまとった。特に強い倦怠(けんたい)感や眠気に襲われた。朝は布団から起き上がれない日が多く、授業にも集中できなかった。鼻血が突然出て、止まらなくなった。
 久代は70~80年代、原因企業のカネミ倉庫(北九州市)や国などの責任を問う集団訴訟を原告の1人として闘い、同社などとの交渉にも臨んだ。そんな母の姿を見ていた達也は、中学生のころには自分がカネミ油症だと自覚した。だが学校ではひた隠しにした。「差別や偏見も怖かったが、自分にとっては長く付き合った症状で普通のこと。自分で消化するしかなかった」
 高校卒業後は、県外で一時働き、20代で地元に戻り再就職した。子どものころからの症状は今も定期的に現れ、仕事にも支障が出ている。「まだ40代。体を酷使しているわけでもないのに」。不可解な症状に、将来への漠然とした不安が募る。ここ数年はきょうだいが子宮筋腫やぼうこうがんを患い手術。達也も脳梗塞を発症した。
 人生に不気味に付きまとう油症。達也は、できる限り距離を置こうとしてきた。カネミ倉庫が認定患者に発行している「受療券」を、達也は一度も受け取ったことがない。医療機関などの窓口で示せば医療費や薬代の自己負担分を払わなくて済むが、達也はあえて自分でいったん支払い、後でカネミ倉庫に請求している。
 「券を持っていることでいちいち偏見の目で見られたくない。50年たてば医療機関でも事件を知っている人は少ないでしょう」。窓口で一から説明させられることを想像すると嫌になる。
 この50年、国や企業、社会に「声」を上げ続けてきた親世代との“温度差”は自覚している。だが、今更掘り返したくない。そっとしておいてほしい。世の中に溶け込みたい-。達也の正直な思いだ。それは家庭内でも同じ。妻にはまだ、自らが油症だとはっきり告げていない。

 =文中仮名、敬称略=

© 株式会社長崎新聞社