カネミ油症 本格救済進まず 道開かぬ司法 消極的な国、企業

 カネミ油症事件が新聞報道で表面化して10日で50年。有害化学物質ポリ塩化ビフェニール(PCB)で汚染された食用米ぬか油が、長崎県など西日本一帯で販売され、消費者は主に家庭料理を通じて家族単位で深刻な健康被害を受けた。しかもそのPCBの一部は猛毒ダイオキシン類に変化しており、現在も心身に深刻なダメージを与えている。いまだに本格的な被害者救済が果たされていない事件。その経過を振り返る。
■発 生
 1968(昭和43)年、福岡、長崎両県などで皮膚の吹き出物や体調不良を訴える人々が現れた。最初の報道は10月10日。原因不明で「奇病」ともいわれたが、カネミ倉庫(北九州市、加藤三之輔社長=当時=)製造の食用米ぬか油が、鐘淵化学工業(鐘化、現カネカ)製PCBに汚染されていたことが分かる。米ぬか油の製造過程で熱媒体のPCBが混入していたのだ。
 被害が広がる直前の同年初め、食用米ぬか油と工程が一部共通するカネミ倉庫製ダーク油を使った飼料で鶏の大量死事件が発生していた。この時、農林省はカネミ倉庫に立ち入り調査し原因をダーク油と特定したが、食品衛生を担当する厚生省には通報しなかった。通報していれば、人的被害拡大を防ぐことができたはずだった。
■裁 判
 被害者は69年から、カネミ倉庫、鐘化、被害防止を怠った国を相手に、損害賠償を求める集団訴訟を次々に起こした。一方、カネミ倉庫は被害者と示談交渉を進め、切り崩しを図った。
 当時の長崎新聞の記事には次のような証言が掲載されている。
 「夫が頭痛に見舞われる。家の中でうなり続ける夫を見る度に悲しくなる。小学6年の子どもも吹き出物がでて“なんでこんな油を食べさせたんだ”と責められる」(長崎市内で油を買った女性)
 「流産と貧血の繰り返し。がんと診断されて手術もした。今は女の体じゃないんです」(五島の女性)
 「油症の苦しみは口では言えない。体が動かず働くことはもちろんできない。生活費を補うため示談した」(五島の男性)
 裁判が進むにつれ、カネミ倉庫の敗訴は確定。大規模な集団訴訟となった全国統一民事では国が1陣2審、3陣1審、鐘化が1陣1、2審、2陣1審、3陣1審でいずれも敗訴。しかし控訴、上告し、裁判は長期化した。原告たちは全身病と生活苦にあえぎ、まさに生き地獄の中にいた。
 国は敗訴判決に従い、1陣と3陣の原告計829人に対し、1人平均約300万円の仮払金を支払った。しかし86年、2陣2審で原告側が、国、鐘化に敗訴。最高裁で原告敗訴の可能性が強まった。全面敗訴すれば仮払金返還を即座に迫られることなどから、原告弁護団は訴えを取り下げる苦渋の選択をした。救済の道を開かなかった司法。当時の新聞は、長い歳月を費やし闘ってきた原告の言葉を紹介した。
 「あまりにも暗く、長い20年だった」
 約10年後、国は元原告らに追い打ちを掛ける。97年、元原告や遺族に仮払金返還を求める調停を一斉に申し立てたのだ。裁判終結後、子どもは大人になり、油症を秘匿しながらそれぞれの人生を歩んでいた。多くは仮払金を使い果たしていた。そういった元原告らの元に通知が届き、油症が配偶者や家族にばれ、家庭不和や離婚、自殺など取り返しの付かない二次被害を誘引。国からの借金は大きな精神的、経済的負担になった。
 仮払金問題の政治解決は、2005年暮れごろから与野党で機運が高まり、07年に返還免除の特例法が成立した。
■新認定
 油症の主因が、PCBが熱で変化したダイオキシン類PCDFだとして、認定につながる診断基準に血中濃度が追加されたのは04年。未認定だった被害者が次々に認定された。
 認定患者の医療費は、カネミ倉庫が不安定ながら負担してきたが、未認定患者には支払っていない。医療費を長年自己負担してきた新たな認定患者たちは08年、カネミ倉庫を相手に損害賠償請求訴訟を起こした。しかし福岡地裁小倉支部、福岡高裁、最高裁のいずれも、不法行為による損害賠償請求権が20年で消滅するとした民法の「除斥期間」を採用。その起算点が問題となったが、「遅くとも油症発生翌年の1969年末」とし、「原告の損害賠償請求権は89年末で消滅した」と結論づけ、訴えを却下した。
 04年以降にようやく油症認定された原告たちが、その15年も前の89年には損害賠償を請求する権利さえ失っていたという、原告たちにとって絶望的な判断だった。
■救済法
 09年、政権交代により本格的な救済法実現への期待が高まった。被害者の悲願は、カネミ倉庫が担っている不安定な医療費支給の、公的負担への転換だった。
 PCB廃棄物処理基金を救済資金に活用する民主案、医療費公的負担を軸にした自民の救済法案などが浮上したが、財務省など官僚の壁を突き崩せず、混迷。12年の国会会期末、調査協力金などを支給する一方、医療費は引き続きカネミ倉庫に担わせる法案が土壇場でまとまり可決。念願の救済関連の立法化ではあったが「骨抜き新法」とも呼ばれた。
 山積する課題の解決は、関係省庁、カネミ倉庫、被害者の3者による定期的な協議の場で検討することに。その後、年2回、3者協議が福岡市で開かれている。だが、国、カネミ倉庫とも新たな救済策には消極的だ。PCBを製造したカネカは、「責任はない」として協議などに関わっていない。

カネミ倉庫の食用米ぬか油の一升瓶=長崎市内
被害者の背中の膿を出す家族=1972年ごろ
カネミ倉庫脱臭装置のステンレス蛇管。この容器内を米ぬか油で満たし、蛇管内に高温のPCBを流して加熱した
カネミ倉庫にPCBを販売した鐘淵化学工業(現カネカ)の当時のパンフレット。「優れた特性と安定した品質」などと記述

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