「すべては仕組まれていた?」妻を捨てて若い女に走った夫の後悔と、膨らむばかりの猜疑心

深窓の令嬢が、超リッチな男と結婚。

それは社会の上澄みと呼ばれる彼らの、ありふれた結婚物語。

有馬紅子(ありま・べにこ)もそんな物語の一人として17年間幸せに暮らしてきた。

しかし突然、夫・貴秋が若い女と駆け落ち同然で家を出てしまい、紅子のプライドは消えかける。

しかし就職に成功し、新たな一歩を踏み出した紅子。初めての売り上げを上げその手段が、周囲のスタッフを魅了していく。そんなある日、紅子は、久しぶりに月城家に呼ばれることになったが、そこで手紙の謎が明かされ、夫の貴秋が、その送り主に気がついた。

「社会経験、ほぼゼロ」。有閑マダムのレールから強制的に外された女・有馬紅子のどん底からの這い上がり人生に迫る。

「有馬さん、次のミーティング、C会議室で1時間後ですからね。僕は、今決まった案件を本社と電話で話してくるんで」

そう言うと…というより、そう言いながら会議室を出て行った坂巻さん。私は、承知しました、と答えたけれど、それが彼の背中に届いたのかはわからない。

―本社勤務ってこんなに慌ただしいのね。

会議室に残された資料を片付けながら、私はそんなことを思った。

一年後に迫った、東京で行われる大回顧展のために、坂巻さんは走り回っている。私は先週からそのアシスタントとして本社勤務になった。

ベッラ・オンダの回顧展は、都内の合計3箇所の美術館を貸し切って開催されることになっていたのだけれど、問題が起こってしまったらしい。

メイン会場となるはずだった、東京でも1、2を争う大きさの美術館の館長が、突然の人事でかわってしまった。

そのせいで、ほぼ合意に至っていた会場のレイアウトやデザインに加え、貸し切りの期間と料金などで折り合いがつかなくなってしまい、決裂の危機にあるのだという。

その会場にはブランド200年の歴史の中で、世界中の富豪たちが購入し、各国に散らばった30体以上のシャンデリアが、一堂に会することになっていた。

ホールだけではなく、大階段などの展示にも趣向を凝らしている。その設計やデザインに合わせたグッズの制作も始まっていたため、それが全くの白紙に戻るのはどうしても避けたい。

そこで坂巻さんが本社に掛け合い、チーフデザイナーにも納得のいくレベルの妥協を求めつつ、美術館との合意点を探っているのだという。

「坂巻さんは、ネゴシエイターとしても優秀な人なんですよ。イタリア語も堪能で、本社デザイナーの信頼も厚いし。だから結果的に彼を頼る人が多くて、こういうトラブルが起こると、てんてこ舞いになっちゃうんですよね」

私が本社で働き始めてから、一度だけ様子を見にきてくれた加藤さんがそう教えてくれたけれど、坂巻さんの働きぶりには、本当に尊敬の念が湧き上がってくる。

本社勤務は、私にとっては突然の辞令だった。

1週間前に突然、小河さんに呼び出され、こう言われたのだ。

追い詰められた女が、紅子の前に現れる…!

「明後日から、本社で坂巻さんのアシスタントとして勤務してください。もともと、販売員としては本社からの預かり、ということでしたしね」

なぜ私のような新人販売員が、と驚き尋ねてみたものの、本社が有馬さんの販売成績を高く評価したってことですね、とさらりと言われただけだった。

反論する理由も術もない。私が、承知しました、と言って、バックヤードを出ようとした時、有馬さん、と小河さんが呼び止めた。

「…この前、変なこと言ってすみませんでした。忘れてください」

“この前”という言葉に、小河さんが坂巻さんへの思いを口にした、あの時のことだとすぐに分かった。

あの時は随分思いつめた様子だと思ったけれど、今は何か、憑き物が落ちたような、それでいて照れたような表情だった。

はい、忘れます、と伝えると、小河さんはにっこりと笑われた。初めて見たような、とても、とても可愛らしい笑顔だった。

加藤さんは別れを寂しがってくれたし、ようやく販売の仕事にも慣れてきた気がしていて、不安がなかったといえば嘘になるけれど、移動初日に坂巻さんは、私の知識を頼りにしている、と言ってくれた。

―だから少しでもお役に立てるように、私は求められた場所で、できることをしよう。

愚直でもコツコツ真面目に誠実に。求められることがどれだけ幸せなことか。それが販売員として、学ばせてもらったことでもあったから。

―それに、必死になっていれば…私宛だというあの手紙のことも考えずにすむ。

あの日貴秋さんは、少し僕に時間をくれないか、と言た。どうするのか心配ではあるけれど、お義父さまもそれに賛同なさったから、私は待つしかない。

会議室の片付けを終え、私は腕時計を見た。次の会議まで40分ある。

打ち合わせは、会場で配る図録についてで、急遽アートディレクターの方もいらっしゃることになった。

昨日、彼の過去作品ついての資料を集めて読み込んではいたけれど、もう一度目を通しておこうと思い、デスクに戻るため会議室の外に出た。すると。

「有馬さん!」

振り返ると、涼子さんだった。

「有馬さん、本社勤務への栄転おめでとうございます」

「栄転だなんて…とんでもないことでございます」

にこやかに近寄って来た涼子さんに、とっさにそう答えたけれど、私は、涼子さんの口調と言葉遣いに違和感を覚えていた。

―涼子さん、何か雰囲気が変わられたかしら…?

どんなにやめてほしいと伝えても涼子さんは、2人きりになると私のことを、紅子さま、と呼んでいた。しかし、今はさらりと苗字で呼ばれたし、何だか話し方が随分よそよそしい。

会社では涼子さんの方が上司ではあるし、当然のことなのだけれど。

「坂巻さんは大回顧展のプロジェクトリーダーで全体を統括されてますし、今後は有馬さんと私がご一緒することも多くなりますよね、きっと。チームには私も入っていますから」

「はい、宜しくお願い致します。まずは坂巻さんのアシスタントとして、少しでもお役に立てることを探してまいりたいと思っております」

私が頭を下げると、涼子さんがクスッと笑った声がした。

涼子が紅子に、意味深な言葉を残す…!?

「ああ、そんなに力まなくても。有馬さんは無理をなさらず、失敗さえなさらなければ。資料のコピーとかできるようになられたって聞きましたし、それで十分では?」

そう言いながら私をみる涼子さんの表情は冷たく、口調は皮肉めいていた。

どうしたというのだろう。こんな顔で涼子さんに見られたことは、かつて一度もない。むしろ入社以来、何かと気にかけて頂いていたはずだったのに。

―私が、また何か…怒らせてしまったのかしら。

『紅子さんは、何か、正しすぎるっていうか。時々無性に眩しいんです。だから本社に行っても、ちょっと嫌われることあると思うけど、紅子さんは理解できないことだろうし、気にしちゃダメ!』

私が本社に行くことが決まった時、壮行会だと言って2人で飲んだ際に、加藤さんにそう言われていた。

私にはその言葉の意味があまり分からないまま、曖昧に頷いたのだけれど、気にしちゃダメ!と言われても、同じチームで働く以上、そうはいかない気がした。

「…田所さん。私が、何か気に触ることでもしてしまったのでしょうか?」

私の問いかけに、涼子さんはまたクスリと笑った後、ぼそりと言った。

「私、諦めたんですよ」

「…諦めた、とは…」

「諦めたんですよ。…紅子さまのことは」

涼子さんは突き放すような口調で、もう一度そう言った。紅子さま、と呼ばれたことにもドキリとしたけれど、私が何より気になったのは、涼子さんの瞳、その瞳の奥だった。

―暗い…。

蔑むように私を見据えたその瞳がどろりと濁り、その先に濃い闇が見えた気がして。

「…涼子さん、大丈夫、ですか?」

私は思わず、そう口にしてしまった。不意に、学生の頃の涼子さんを思い出したから。

初めて出会った時の涼子さんも、確かこんな瞳をしていた気がして。誰とも喋らず、お教室の隅に隠れるように、怯えるように座っていた涼子さんの、あの瞳。

「何か、あったんじゃ…ないですか?大丈夫…?」

心配で発してしまった私の言葉に、一瞬、涼子さんの瞳が潤んだ気がしたけれど、それは本当に一瞬だった。そして、口元を強く噛みしめるような仕草をした涼子さんは、また、あの暗い瞳に戻ってしまった。

「大丈夫じゃなくなるのは、有馬さんの方ですから、ご自分の心配をなさった方がよろしいのでは?ここは、商品を売ればいいという販売員の仕事ほど単純で簡単なものではありませんし、頭を使うんです。

販売員なんて、あの加藤さん、でしたっけ?あの子みたいに、愚かで品のない子でもできる仕事でしょう?では、私は失礼します」

―…愚かで、品のない子、でも?

加藤さんを揶揄されたことに胸がカアッと熱くなり、私は気がついた時には、立ち去ろうと背中を向けた涼子さんの、その腕を掴んでしまっていた。

振り向いた…正確には私が振り向かせてしまった涼子さんの表情は、驚きで固まっていた。その顔に私は、とんでもないことをしてしまった自分に気がついた。

「…し、失礼しました」

自分の行動に戸惑い、慌てて手を離して謝ったけれど、涼子さんはまだ、信じられない顔をして私を見ている。

周囲を通り過ぎて行く人たちの、何事かという視線にも気がつき、私はいたたまれなくなる。

「…申し訳ありませんでした。私はなんて失礼なことを…」

もう一度謝りながら、でもどうしても、加藤さんや一緒に働いてきた販売員の皆さんのことはきちんと伝えておきたいと、こみ上げてきた強い思いを、私は押さえることができなかった。

涼子の策略に気がついた貴秋が、動きだす…!

「加藤さんはベッラ・オンダに純粋な思いで憧れて、一生懸命勉強しながら、礼儀作法の学校にも自分のアルバイト代で通った、たくましい女性です。

彼女には、私や田所さんのように両親の庇護を受け、何不自由なく甘えて育った人間では到底知り得ない苦労や葛藤があったと聞きました。それなのに彼女は卑屈にもならず、明るく努力を続けたんです。

そうして、自分の夢を手に入れた人を下品だとか卑しいとかおっしゃる田所さんが、私には理解できません。品格というものは、その人の努力で宿すことができるもの。私は、それを加藤さんに教わりました」

そう言いながら思わず涙がこぼれそうになり、それを堪える。どれほど加藤さんや小河さんに、私は助けられてきただろう。

たった数ヶ月の間に…彼女たちは、何もできない世間知らずな私に、沢山のことを教えてくれていたのだ。

「私は、この先どんなことがあってもこのブランドで、販売員として人生を再出発できたことを、販売員として働かせていただけたことを、ずっと誇りに思うでしょう。

加藤さんも小河さんも、私にとって大切な上司であり先輩であり…仲間ですから」

「…仲間」

涼子さんが、呆然と私を見つめたまま呟いた声が、小さく、小さく聞こえた。

彼女たちが、同じ気持ちでいてくれているかはわからない。でも今私は心の底から、その言葉を口にしている。

「夫に逃げられた40歳の何もできない女を…支えてくださった方たちを、涼子さんがバカにされるというのなら、この私が…有馬紅子が許しませんよ」

月城貴秋の決意:全て彼女に仕組まれていたことなのだろうか?

偽装された離婚届と、謎の手紙の筆跡が同じだと知った日。田所さんに、会いたい、とメールを送った。すると彼女の方から日程を指定した返信がきたので、僕が店と時間を決めた。

「21時に 先日お会いしたBARで」

僕は、待ち合わせより15分ほど前に店に着き、地下2階へと続く階段を降りる。

銀座の会員制のBAR。ここなら入会の規約が厳しく、めったな客は入ってこない。真実を確かめ、暴くには、おあつらえ向きの店だった。

ー僕の恋さえ…全て彼女に仕組まれていたことなのだろうか。

地下深く、レンガ造りの階段を降りながら、恐怖感のようなものがよぎる。自他共に認める楽天家の僕に、こんな感情があろうとは。

予約しておいた個室に入り、まだ到着していない彼女を待ちながら、バーボンを注文する。先に一杯入れておかねば彼女と対峙できなさそうで、苦い気持ちのまま一気に煽る。

―彼女と初めて会ったのは…。

確か数年前のパーティだったはずだ。何のパーティだったか忘れてしまったが、彼女から声をかけられた。その時、紅子には学生時代から大分お世話になっていたと、自己紹介された。

―田所涼子です。

そう言った彼女を、美しいけれど無機質な顔をした女性だと思った。紅子と同じところにホクロがあったことも、妙に覚えている。

社交界での紅子の人気は高い。僕一人で出たパーティで、紅子の話をされることは多かったから、その時も、紅子のファンの一人だろうと、特に、紅子に教えることはしなかったのだけれど…。

―あの、手紙。

「この文字からは、一切、人物像が特定できない。個性を読み取れない、というのです。どういう生き方をすればこんな文字になるのだろうと、鑑定士は研究対象にしてみたいとすら言っていました」

西条がそう言っていた、筆跡の謎。それは、言われてみれば、僕が初めて会った時の、彼女自身の印象に繋がるものだった。無機質で主体性がない。

―形は美しいが、中身は何も入っていない、透明の空ビンのような。

それにあの手紙に紛れ込んでいた、紅子へのメッセージ。手紙の送り主に気づいてしまえば笑えるほど拙すぎるが、稚拙が故の執念を感じ、僕は身震いしそうになった。

『あなたのそばにいきたい。あなたへの憧れに焦がれそうです。私がかわれば、あなたのお側に置いて頂ける。あなたになりたいのです』

―とにかく、紅子は守らなければ。

田所さんが、いつもつけていた真紅の口紅を思い出した時…お連れ様がいらっしゃいました、という店員の声がして、個室の扉が開いた。

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貴秋と涼子の対決の行方は!?そして紅子の行動の、反動が…。

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