絶対に首を切らなかった日本の「名経営者」(7)稲盛和夫

©株式会社光文社

アパレル大手の三陽商会が3度目のリストラをしたり、大正製薬が創業以来初めてリストラしたりと、相も変わらず、リストラのニュースが流れ続ける。

かつて、日本企業には「絶対に首を切らない」と宣言した数多くの経営者たちがいた。そんな名経営者たちを紹介していこう。

「創業3年めにして起きた社員たちの待遇改善を求める反乱を経験し、経営者とはどうあるべきかを深く考えたところに稲盛さんの経営理念の原点がある」

と、経済ジャーナリストが語る。

1932年、鹿児島市に7人兄弟の次男として生まれた稲盛氏は、大阪大学医学部薬学科を受験するも3度失敗、鹿児島大工学部へ入学。

卒業後、当時花形産業だった石油業界の就職試験も面接で落とされ、結局、京都の碍子(がいし)会社「松風工業」に入社し、ニューセラミックスの研究・開発に没頭した。

しかし、新任の技術部長から「君は手を引け」と言われ、退社を決意。1959年4月、同僚ら8人と京都セラミックを設立した。

稲盛を筆頭に創業メンバーは徹夜もいとわず働き、2年間突っ走った。ところが、3年めに入った1961年4月、前年に入社した高卒社員11人が、定期昇給とボーナスなど将来の保証を約束しなければ辞めると、稲盛に要求書を突きつけたのだ。

「稲盛氏曰く『京セラは私の技術を世に問うという目的で作っていただいた会社だが、そんな経営者個人の目的のために社員は一生懸命働いてはくれないことがわかった』と。

そこで、会社を経営するということは、自分の技術者としてのロマンを追うことよりも、将来にわたって社員やその家族の生活を守ることが大事だと考えを改めた。

この経験から『全従業員の物心両面の幸福を追求すること。人類、社会の進歩発展に貢献する』という稲盛氏の経営理念が誕生した」(前出ジャーナリスト)

弱冠29歳の春だった。

以後、雇用確保という理念は貫かれる。1974年の石油ショックで需要は落ち込み、京セラにもリストラの危機が訪れたが、稲盛は「雇用は死守する」と宣言。首切りをしなかった。余った人員は工場敷地内の草むしりや花壇の手入れ、溝の泥さらいをこなしたという。

1979年、経営不振に陥ったトランシーバー製造のサイバネット工業、1983年にカメラメーカーのヤシカを救済合併したが、合併される側の社員のリストラも一切しなかった。

「創業時に痛い目に遭ってますからね。稲盛氏の原理原則は、『利他の心』。世の中のためになるのか、私心はないか、つまり、他人に利益のあるように考える心が事業を成功させる秘訣だというわけです」(同)

私財を投じた稲盛財団や経営塾「盛和塾」などを通じ、人材育成に貢献する稲盛氏は、現在の格差社会に対しては「非正規社員の正規社員化を進め、格差是正に努めるべき」と説いてきた。

そして、「不況のときこそ、雇用を守れ」と外資系合理主義型経営に、今も警鐘を鳴らしつづけているのだ。