平成最初の年1989年から3年間、駆け出し記者時代を四国徳島で過ごした。10月16日、訃報が伝えられた仙谷由人さんはその徳島出身の40代前半の弁護士だった。組合関連の訴訟で、裁判所に来ていた仙谷さんに話を聞いたことがある。ポイントを押さえながら受け答えして、時々自分の話を理解しているか記者の表情をじっとうかがうようなところがあった。翌90年に衆院選徳島全県区で旧社会党の新人として出馬した。元首相三木武夫さん亡き後の徳島は保守乱立となり、後藤田正晴さんがトップ当選を果たしたものの、仙谷さんは組織票をまとめて2位と大健闘した。それまで同じ自民党ながら三木派と後藤田派の選挙戦は「阿波戦争」と言われるほどにすさまじかった。その名残もある選挙で、仙谷さんが代議士になったことは象徴的であった。ただ、その仙谷さんが三木、後藤田両氏に続いて政権中枢を担うとは当時は想像さえできなかった。72歳で亡くなった仙谷さんの足跡をたどると、平成史の別のページが見えてくるようにも思える。(まとめ 共同通信=柴田友明)
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(※肩書はいずれも撮影当時です)
【仙谷由人氏】
10月11日午後10時30分、肺がんのため東京都内の自宅で死去。72歳。徳島県出身。東大在学中の1968年に司法試験に合格。労働問題に精通する弁護士として活躍した後、90年に社会党から立候補して初当選。93年には苦杯をなめたが、96年の衆院選前に旧民主党結党に参加。返り咲いて政調会長などを歴任。2009年の政権交代で鳩山内閣の行政刷新担当相に就任し、「事業仕分け」を担当。一時、国家戦略担当相も兼務した。10年6月発足の菅内閣では官房長官を務め、外交、内政の政策調整を一手に担った。しかし、自衛隊を「暴力装置」と発言し物議を醸したほか、中国漁船衝突事件での政府対応の責任を問われ、10年11月に参院で問責決議が可決。翌11年1月の内閣改造で交代し党代表代行に回った。12年の衆院選で落選し、14年に国政からの引退を表明した。