放射能漏れ「むつ」入港40年 佐世保市民は今、何を思う 「受け入れで造船業存続」、「原子力考えるきっかけ」

 放射能漏れに伴う修理のため、日本初の原子力船「むつ」が佐世保港に入り、16日で40年を迎えた。受け入れを巡り、県内では賛否が巻き起こったが、経営危機が表面化した佐世保重工業(SSK)の救済が“大義名分”になったとされている。当時を知る元社員や反対活動を展開した市民は今、何を思うのだろうか。
 1975年6月。辻一三・佐世保市長(当時)は、母港の青森県むつ市から放射能漏れ事故で退去を迫られた、むつの修理を受け入れることを表明した。基幹産業、造船の不況に悩む地元経済界は支持に回る一方、県漁連や労働団体などは強く反発。対立が激化した。最終的には、経営危機に陥っていたSSKの救済などを理由に、県議会と市議会が受け入れに同意した。
 SSKの労働組合で代議員をしていたOB会事務局長の山川正行さん(70)は、仕事量とともに収入が減り、苦しい生活を強いられた当時を振り返る。「倒産するかどうかの瀬戸際だった。国策に協力することが会社の救済につながる」。そう考え、多くの組合員とともに賛成の立場に立ち、いちるの望みを託した。
 原子力に対する不安がなかったわけではない。ただ現在と比べ知識や危機感はそれほどなかった。「もし福島の原発事故が起きた後だったら、市民の理解は得られなかっただろう」と分析する。それでも「結果として会社は存続することができた」として、受け入れの判断は間違っていなかったと考えている。

 佐世保地区労で反対運動に汗を流した元衆院議員、今川正美さん(71)は「市民が原子力について考えるきっかけをつくった」と強調する。一方、玄海原発の再稼働などを巡る議論を引き合いに、「むつのことに触れる人は、そういない。日本の原子力政策は今でも、前に進めようという考え以外にない。あのときに分析、検証していれば福島のような事故は起こらなかったはずだ」と警鐘を鳴らす。
 入港から40年が過ぎ、当時の議論や活動を知る人は少なくなった。今川さんは「節目の年くらいは、その記憶を呼び起こしてほしい」と語る。

◎原子力船むつ

 原子力船の実用化に向けた研究や開発を目指し、1969年6月に石川島播磨重工業で進水。74年9月、原子炉の出力上昇試験中に放射能漏れ事故が発生。母港の青森県むつ市から退去を迫られた。75年6月、佐世保市長が修理受け入れを表明。78年10月16日に佐世保港に入り、SSKで修理を終え、82年8月出港。原子炉が取り外され、96年から海洋地球研究船「みらい」として運用されている。

抗議船団が阻止行動をする中、佐世保港に入る原子力船むつ=1978年10月16日

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