自分史=私のシベリア抑留記=谷口 範之=(64)

 すきっ腹をかかえ寝ころんだ。寒風が吹き込まないから、扉なしのセメント床の上でも寒さを感じない。
 後側の板囲いの上部の空間を眺めた。急傾斜の小山に木の十字架の墓標が、ビッシリ立っている。ソ連は無宗教だから死者の墓に十字架はたてないはずだ。終戦前、ソ連軍との交戦で戦死した日本兵の墓にしても、十字架は似つかわしくない、などと考えているうちに寝入ってしまった。

  一八、女学校の教室に一泊

 翌日、午後遅くまで厩屋で待機。=待機はいいが、薄粥さえ食わさないとは何事だ。俺たちは木偶の棒じゃないぞ=などと、ソ連軍の悪口を並べる。並べてどうにかなるわけではないが、昨日から二日間絶食である。辛い。
 日暮れ近くになって移動することになった。移った先は元日本の高等女学校の校舎であった。ここは荒らされた痕跡は全くなかった。二階の一教室が私たち四五名に宛がわれる。机、腰掛、教壇などは取り除かれているが床は綺麗である。廊下も掃除が行き届いていた。窓ガラスも割れていない。外は雪が降りはじめ、暗くなってきた。扉を閉めると四五人の人いきれで暖かい。
 天候の変化を察知して、厩屋からこの学校に移転させたのか、露助にしては気の効いたことをしたものだ、などと話していると、カンボーイが石油ランプを持ってきた。一教室に一コずつ置いている。便所の位置も教えて去った。初めてのことであった。開けっ放しの厩屋で寒さに震えるよりいいが、空腹は耐えがたい。
 三合里で患った夜盲症は、一向に回復の兆しを見せない。一日二回の薄粥給与では回復するだけの栄養分がないことは分かるが、なんとも歯がゆい。幸い三合里で面倒を見てくれた戦友とはずっと一緒で、厭な素振りをみせないで、付き添ってくれるのでずい分と助かってきた。
 石油ランプの芯の炎だけが目に映り、それ以外は暗闇である。小便だと声をかけると気軽に私の手を握って、便所へ連れて行ってくれた。ノーバヤ以来、一緒に来ているが彼とは不思議に、何時も同じ班だった。班の顔触れはほとんど入れ替わったのに、彼だけは変らなかった。忘れ難い戦友であったが、今こうして書いていてどうしても名前が思い出せない。
 翌朝学校を出発。校舎の入口に興南××高等女学校の看板がかかっていた。終戦から一年以上過ぎているが、看板は傷んでいないし、ガラス一枚も割られていない。便所も清潔であった。反日騒動があったはずなのにと思うと、暖かい気持がほのぼのと湧いた。

   一九、元山へ

 食事なしは三日目を迎えた。水腹も一刻というが、これ以上空腹には耐えられない。季節は冬で青草などまったく見当たらない。カンボーイは三人だけだと、不穏な場面を想像したものの相手は武器を持っている。ノーバヤ以来、カンボーイの(ダワイ ダワイ)を聞かなくなっている。見て見ぬ振りである。そんなことから帰還ということが頭の中をかすめ、騒動を起こさない方が賢明だと理性が働いた。
 駅に行き、貨車に乗り込む。南へ走り出して、ホッと安心した。

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