セアーザ今昔物語=ほとんど全員日本人だった=(2)=不渡りで倒産する日系人も

セアーザ内で盆踊り大会が行なわれた様子(BLOG DA CEAGESPより)

 不渡りを出した相手はサンパウロ市から車で2時間ほどのところに野菜の販売店を構えていた。その近くで三日三晩待ち伏せしたが、新垣さんが来たことを知ってか姿を現さなかった。
 「これでは埒が明かない」と考え、弁護士に相談し不渡り小切手を預けた。ところがその弁護士が亡くなり、小切手の行方すら分からなくなってしまった。手の打ちようがなくなり、売上げの回収を諦めた。
 新垣さんは「同じようにだまされて立ち行かなくなった日系人がたくさんいた。あのころは世間話も借金のことが多かった」と振り返る。「私も辞めようと思ったよ。でも子供たちの学費をどうにかしなくてはいけなかった」と笑いながら話した。
 今でこそ笑い話だが、不渡りをきっかけに従業員を全員解雇し事業を縮小。以降は一人で切り盛りし、小切手は決して受け取らない。
 新垣さんには4人の娘がいて、上の3人はそれぞれ経済学者、栄養士、医者として活躍して、末娘は獣医師を目指してサンパウロ大学で学んでいる。「セアーザの仕事はきつい。女の子に継がせられないと思った。学位があれば女の子でも堂々とできるからみんな大学を出させた」と話す。
 「もしブラジルに来ずに、そのまま沖縄に残っていたら、子供に十分な教育が施せたと思いますか」と尋ねると、考える間もなく「出来なかったでしょうね」と答えた。
 「戦後の沖縄は荒廃して自給自足。食うか食わないかの生活だった。あんなひもじくては教育どころじゃなかっただろう」としみじみ話した。
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 ニンジン専門の卸売業を営む古賀オズワルドさん(58、二世)は18歳のときに亡くなった父親から店を継いで以来、40年間セアーザで働いている。古賀さんはもともと医者志望で、高校卒業後は大学に進学するつもりだった。
 しかし、卒業の年に父親が急死。面倒見が良かった父親は知人らに頼まれて保証人になっていて、その借金を踏み倒されて家族が肩代りする羽目になった。
 持っていた農地などを手放してもまだ借金は残り、葬式の費用を捻出できなかった。幸い、古賀さんが働いていた整骨院の院長が退職金代わりに1年分の給料を払ってくれ、なんとか父親を弔うことができた。古賀さんは大学進学を諦め働くことを決めた。(つづく、山縣陸人記者)

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