「被爆者」認められ安心 台湾医師の次男・康さん 5年ぶり諫早訪問

 戦時中、無医村だった長崎県諫早市長田地区の診療所に赴任し、長崎原爆後、救護活動に尽くした台湾出身医師の次男、康啓聰さん(74)=台湾・屛東県=が19日、5年ぶりに同地区を訪れた。原爆当時1歳半だった啓聰さんは71年後の2016年、被爆者健康手帳(3号被爆)を取得。「父は原爆の影響とみられる病気で59歳で亡くなり、被爆者と認められなかった。私は認められ、少し安心している」。早世した父の代わりに念願の手帳を手にした思いを“第二の古里”で語った。

 父の康嘉音さん(1914~73年)は旧長崎医科大を卒業後、44年から長田地区の診療所長に就任。45年の長崎原爆後、近くの長田国民学校に収容された約200~300人の救護活動の中心だったという。

 啓聰さんは長崎市山里町(当時)で生まれ、47年まで両親と兄弟2人と長田地区で生活。嘉音さんの死去後の83年、啓聰さんらは地元住民への感謝を込めた記念碑を贈り、現在も診療所跡の長田町公民館で展示されている。嘉音さんの救護活動を知る同町の山田春男さん(88)と30年余り、年賀状の交換を続けている。

 啓聰さんの被爆者手帳には「8月10日から数日間、複数の被爆者と生活」と記載。診療所長だった嘉音さんらと暮らしていた点が、3号被爆者の要件にあたる「原爆放射能の影響を受ける事情下にあった」と判断されたとみられる。啓聰さんは「当時の記憶はない。山田さんら父を知る人と交流が続けられてうれしい」と話した。

「故父の安息地」と書かれた記念碑を山田さんら住民に説明する康さん(左)=諫早市、長田町公民館

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