幕末群像~開明派の苦闘、江川太郎左衛門、ジョン万次郎、大鳥圭介~ 激動の時代における近代化の旗手たちのジレンマ

ジョン万次郎(晩年、筑波大学附属図書館史料)

漁民・万次郎の数奇な生涯

本年は明治維新から150年。日本を震撼させたペリー率いるアメリカ東インド艦隊は、再来訪を予告して引上げたが、再びその威圧的姿を現したのは、幕府の予想より早く嘉永7年(1854)正月のことであった。ここに激動の幕末が幕を開ける。安政と年号が改まるのはこの年11月である。対応に苦慮した幕府首脳は、韮山代官・江川太郎左衛門英龍(ひでたつ)にアメリカ側と交渉して侵入を阻止するように命じた。老中・阿部正弘を首班とする幕閣は開明派江川の才覚に期待して彼を勘定吟味役格に任じ、対米交渉に参画させた。江川はひそかに「切り札」を用意していた。

それが土佐(現高知県)生まれの漂流民・万次郎であった。中浜万次郎(通称、ジョン万次郎)は文政10年(1827)、土佐国幡多(はた)郡中ノ浜浦の漁民の家に生まれた。天保12年(1841)漁民仲間と出漁中に嵐にあい遭難した。14歳の春だった。アメリカ捕鯨船に救助され、アメリカ・東部マサチューセッツ州ニュー・ベッドフォードに渡り、船長ホイットフィールドの手厚い庇護の下で専門教育を受けた(それまで見習い漁師万次郎は正規教育を受ける機会は与えられなかった)。

彼は航海術を習得した一人前の船員に成長し、10年後に帰国を果たした。アメリカ海員の労働の世界に身を置いた彼は、全ての技量を自らの努力で獲得した。帰国の道を選択したのも自らの意思であった。乗り込んだ捕鯨船が琉球(現沖縄)の近海まで接近した時、自分の買い入れたボートに乗り移り上陸を遂げた。
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嘉永6年(1853)6月、江戸の土佐藩邸に幕府から1通の書状が届いた。「万次郎と申すもの、外国の様子等尋ね候儀も有るべく、当地へ呼寄せ置く事」(現代語表記とする。以下同じ)との督促状であった。アメリカ使節ペリーが、フィルモア大統領の国書を残して立ち去ってから、1週間が経っていた。

儒学者・大槻磐渓が林大学頭を通じて「土佐漂流人万次郎は頗(すこぶ)る天才之有る者」で「此の度の掛合役等に召し遣われ候はば、必ず穏便の取扱」が出来ると、幕府へ推薦した。磐渓は蘭学者大槻玄沢の次男で開国論者であり、林はペリー再来時の応接係を務める。万次郎が「頗る怜悧(れいり)にして国家の用となるべき者」との評判はすでに、薩摩藩主・島津斉彬(なりあきら)や長崎奉行・牧志摩守を通じて幕府老中らの耳に達していた。

10月14日、老中首座・阿部正弘は万次郎を呼寄せ、アメリカ事情を聴取した。万次郎は、阿部正弘、林大学頭、川路聖謨(としあきら)、江川太郎左衛門ら有力重臣が列座する中で、「共和政治州」が「北亜米利加の内三十度より五十度の間に有」り「西は北太平洋を隔て御国(注:日本)に相対」していることから始めて、アメリカの人情、風俗、政治、さらには大統領は「プレジデント」といい「人民の入れ札」(選挙)によって選ばれ、国内がよく治まっていることなどについて忌憚(きたん)なく語った。この時、万次郎は土佐藩に登用されて高知の教授館に英語教師として出仕したばかりであった。

万次郎、幕府外交官に登用さる

その後、代官江川はペリー再渡来に備えて、万次郎を召し出して自分に配属させるよう幕府に働きかけた。この結果、万次郎は「御代官江川太郎左衛門手付」を命ぜられた。一介の見習漁師の少年から士分に取り立てられ、故郷にちなんだ中浜という姓を名乗ることになった青年を、江川は専属の通訳官兼外交顧問として活動させる積りで指導を重ねてきた。だが万次郎起用に強く反対する勢力があった。その急先鋒が、水戸藩主徳川斉昭であった。

「アメリカに恩義のある万次郎はアメリカ側に立って案件を処理するに違いない」との登用警戒論であった。結局、江川は万次郎に翻訳作業に従事させるだけにとどめざるを得なくなった。

万次郎は、アメリカ船に救われて未知の社会の存在を知らされたことが、その後の一生を決定付けることになった。日本における万次郎の封建制度の世界では、生まれながらにして身分は決められていた。だがアメリカの社会では、努力と実力によっては自分の地位を自分で選び取ることが出来た。彼の帰国後の発言のうちで幕末の治世者に衝撃を与えた言葉は「アメリカでは国王を入れ札で選び、四年たてば交代するものと決っている」(大統領選挙制度)であった。その後、彼は不満を抱えながらも開国前後の通弁(通訳)を務め、明治維新後は開成学校英語教授となった。

万次郎の後半生は必ずしも恵まれたものではなかった。が、子息は秀才ぞろいで、医学博士・中浜東一郎、工学士・西次郎、海軍主計大監・計三郎がいる。万次郎は明治30年(1897)11月12日、波乱に満ちた生涯を閉じる。享年71歳。

江川太郎左衛門英龍(筑波大学附属図書館史料)

尊王攘夷と開国論

文久2年(1862)は日米修好通商条約の締結からわずかに4年後であった。だが政局の動きは1年といわず、月が変われば様相を一変するという激変ぶりだった。ちなみに文久元年(1861)4月、アメリカで南北戦争が勃発している。福地桜痴(旧幕臣、言論人)は「文久二年は幕府の歴史に於いて最も多事を極め、幕府衰亡の運命は実に此一年に決したる年なり」(「懐往事談」)と記し、公武合体論で京都の朝廷と幕府の間を周旋していた長州藩が、一変して朝廷を急進的な攘夷論に巻き込み、倒幕論を唱えてその鋭鋒を露骨にしてきた、と説いている。薩摩藩島津久光の卒兵上洛による寺田屋騒動、生麦事件、長州過激派によるイギリス公使館焼き討ち…。

幕府が海軍を増強するためオランダに軍艦1隻を発注し(当初アメリカに発注したが、南北戦争のためオランダに変更した)、同時に榎本釜次郎(武揚)、沢太郎左衛門、赤松大三郎ら留学生15人を同国に派遣したのもこの年6月である。幕府陸軍は後にフランス皇帝ナポレオン三世に軍事顧問団の日本派遣を要請した。フランス陸軍は世界最強とされていたからであった。蘭学者大鳥圭介は、軍学者の立場からこの外国からの顧問団と心血を注ぎあうことになる。

文久2~3年(1863)にかけては、尊皇攘夷過激派がその激しさを増し、政治は京都と江戸をそれぞれ中心とする二元運動は始めた。幕府の屋台骨を根底から揺り動かした。文久3年2月の将軍家茂の上洛がそれに拍車を掛けた。家茂は20歳前の青年将軍であった。江戸と京都ではテロルが横行し、異人斬りがあとを絶たなかった。

大鳥圭介(幕臣時代、筑波大学附属図書館史料)

蘭学者・大鳥圭介が万次郎から英語を学ぶようになって2年が経った。万次郎は圭介に助言した。

「英語の発音を正確に習得する積りならば横浜に出掛けて西洋人について学ぶべきです」

圭介は万次郎の語学力には物足りなさを感じていただけに、早速横浜に出てアメリカ人の教養人、ヘボン(James C. Hepburn)、ブラウン(当時の表記ではフローン、Samuel R. Brown)、トムソン(David Thompson)らに相次いで面会して英語教授を求めた。そしてヘボン博士について英語と数学を学ぶことに決めた。

圭介はその後フランスの兵学を軍事顧問フランス人士官ブリュネやカズノフについて学んだ。フランス語にも通じるようになる。圭介32歳。この間も物情は騒然としていた。薩英戦争、水戸天狗党決起、池田屋騒動、蛤(はまぐり)御門の変、第一次長州征伐…。

アメリカ人医師ヘボン

ここで日本の英学・医学・教育に大きな足跡を残したヘボンについて触れておきたい。医学博士ジェームズ・カーティス・ヘボンが安政6年(1859)日本に着任した時は、既に44歳の経験豊富な宣教師であり医師だった。(「ヘップバーン」が正しい発音に近いが、通例に従って「ヘボン」と記す)。神奈川(現横浜市内)の自宅近くに宗興寺を借受け医療設備を設置して貧困と病気に苦しむ人々の治療を始めた。1日に100~120人もの患者を診察し治療に当たった。次いで横浜で施療所を開設した。門人の岸田吟香(ぎんこう)に伝授して目薬を売出したり、歌舞伎俳優・沢村田之助の手術をして義足をつくるなど名医の評判を高めた。
キリスト教宣教師でもあるヘボンは近代科学、医学はもとより、教育界の開拓者と目された。早くも文久元年(1861)幕府から9人の青年の英語教育を委託され、彼らは6カ月間英学を学ぶため博士のもとに派遣された。

「1861年から62年に掛けて、江戸幕府は英学を通じて西洋の新しい知識を学ばせる目的で優秀な青年数名を派遣してきた。青年たちと私との人間関係はすこぶる友好的だった。やがて動乱が起こり、幕府は崩壊寸前という風雲急を告げる緊急事態となり、この青年たちは急遽江戸に呼び戻された。動乱に参加して命を失った者もいたが、新政府のもと、信頼と名誉ある地位を得た者もいた」(博士の追想。「ヘボン―同時代人の見た―」より)。

この俊才の中に大鳥圭介がいた。大村益次郎(軍政家、戊辰戦争では圭介の敵将)、林董(はやしただす、のちに外交官、戊辰戦争では圭介と共に戦う)、高橋是清(のちに首相)、沼間(ぬま)慎次郎(後に守一、東京府議会議長、言論人)らも教え子であった。一方で博士は和英辞書「和英語林集成」を編纂し刊行した。辞書に用いられたローマ字表記は「ヘボン式ローマ字」として普及した。明治20年(1887)、念願の聖書和訳も完成させた。クリスチャンの高等教育機関を開設し、これが後年明治学院大学となった。同校キャンパスにはヘボンの胸像が立つ。ヘボン夫人が開いた英学塾はフェリス女学院(横浜市中区)の起源である。蘭学一辺倒だった日本の洋学は、幕末動乱期になって英学の時代に入った。それはアメリカ・ペリー艦隊の浦賀来航がいかに衝撃的であったかを物語るものでもあった。

幕臣・大鳥圭介の才覚と洋学

蘭学者・大鳥圭介は、開明的君主として知られる薩摩藩主・島津斉彬の厚遇を受けるようになった。時には多額の御手当金を受けることもあった。薩摩藩士ではない彼が、通常ならばお目見えも叶わない斉彬と辱知(じょくち)の間柄になったのは、同藩が秀才青年たちに蘭学を習わせるために圭介の門に彼らを預けたことから始まった。若者の中には寺島宗則(後に外務大臣)、川本幸民(こうみん、のちに物理学者)などがいた。

蘭書・英書の専門書(化学、天文学、気象学、鉱山学、製紙法など)を彼らに翻訳させ、圭介が三田四国町(現東京都港区芝5丁目)の薩摩藩上屋敷に出向いてその内容を藩主に進講した。圭介自身はテクノロジー(工学系)専門書の翻訳をし、翻訳製本が完了するたびに斉彬に教授し進呈した。説明は明快であり、藩主は西洋の理工系の学問に関心を示すようになった。圭介は「学問があり、大藩の藩主でカネもあり、勢力もある」(圭介・自伝原稿)斉彬を敬愛し、また藩主も圭介の見識を評価していた。圭介はテクノクラート(高級技術官僚)の道を独力で拓(ひら)いていくのである。

薩摩藩の中屋敷は品川の海岸沿いの芝・田町(現東京都港区芝浦、JR田町駅付近)にあった。藩主斉彬は緊急の海防策として、芝の浜に藩独自の台場を構築し大砲を備えつけることを考案した。台場造営の設計施工から現場での指揮を命じられたのが圭介であった。彼の築城技術・港湾技術(今日の土木工学)の知識が遺憾なく発揮され、洋風の大型大砲が備えられた。薩摩藩主からの信頼は揺るがざるものになった。慶応元年(1865)12月、長男・富士太郎が誕生した。後に外交官(メキシコ大使など)、貴族院議員として活躍する。
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播州(現兵庫県西部)の田舎医者の息子にすぎない無位無官の圭介は、血を吐くような自己研鑽が実って尼崎藩士となって士分に取上げられ、次いで阿波徳島藩に取り立てられ、さらには兵法やテ土木技術の知識が評価されて幕府の代官・江川太郎左衛門の江川塾教授となった。士官教育を目指す講武所でも勝海舟らと共に青年の指導に当たり、同時に築城・砲術・戦術訓練などの翻訳にあたった。

幕府は瓦解寸前の瀬戸際まで攻め込まれ、地震・水害などの自然災害やコレラに襲われ夜盗・かっぱらいが横行する江戸の町民の動揺は甚だしかった。断末魔の叫びを上げていたと言える。幕府首脳は旧来の幕臣だけでは難局の打破は出来ないと判断し、人材を在野から幅広く採用することになった。慶応2年(1866)、圭介は洋学者らと共に幕臣に登用された。33歳。一躍、徳川幕府の直臣(じきしん)にまで登りつめた。50俵3人扶持の禄米が支給された。年に禄米50俵と家来3人分の扶持米が支給されるのは、旗本の中でも上位である。(1人扶持は年に1石8斗)。登用された者の中には、渋沢栄一(後に実業家・男爵)、渋沢成一郎(栄一の従兄弟、後に実業家)、天野八郎(後に彰義隊隊長)、近藤勇(後に新撰組隊長)、土方歳三(後に新撰組副長)などが含まれる。いずれも旗本(1万石未満の幕臣)の扱いである。

当初、圭介は幕府開成所(東京帝国大学前身)に招聘(しょうへい)され洋学教授に就任し、同時にイギリス・フランス・オランダの兵法書(軍事関連図書)の翻訳に従事した。次いで、彼は幕府陸軍の歩兵差図役頭取(さしずやくとうどり、現陸軍大尉)となり、さらに翌慶応3年(1867)1月に歩兵頭(2000石、現陸軍大佐)に抜擢され、同年3月には歩兵奉行(3000石、現陸軍少将)にまで昇進する。「三段跳び」ともいえるスピード昇進である。

幕府はフランスの陸軍士官ブリュネやカズノフら15人を招いて洋式軍隊訓練(士官養成)に取組むことになった。訓練場を神奈川の海岸沿いに広がる太田村(現横浜市中区日ノ出町、黄金町、初音町)の丘陵地に「太田陣屋」を造成し、開国論者の幕府重臣・小栗上野介忠順(ただまさ)が最高司令官となった。小栗を支えたのは、圭介をはじめ矢野次郎(後に高等商業学校(一橋大学前進)校長)、沼間慎次郎、益田孝(後に実業家、ヘボン塾出身)ら開明派の幕臣とフランス陸軍士官たちであった。彼らに前には雌雄を決する戊辰戦争が待っている。開国論者の小栗は西軍(新政府軍)の暴徒に斬首され、圭介は「敗軍の将」となるのである。

参考文献:「ジョン万次郎とその時代」「日本の歴史9」(朝日新聞社)、筑波大学附属図書館史料

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「幕末・維新とメディア事情それに小栗忠順」
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http://www.risktaisaku.com/articles/-/7919

(つづく)

 

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