96歳で死去の手塚明治氏、巨人第19代4番打者、川上の後の5番としても活躍

手塚明治氏の通算成績

強打の三塁手として1950年に64打点を記録

 10月9日、巨人の第19代4番打者だった手塚明治(あきはる)氏が死去した。96歳だった。

 手塚氏は1921年10月10日生まれ。先日物故した古川清蔵氏と同級生。川上哲治の二学年下に当たる。長野県の名門松本商業学校時代には夏の甲子園に出場、明治大学では大打者大下弘とチームメイトだった。その後、社会人野球の中央工業、今泉産業、小口工作所でプレー。小口工作所は終戦直後はノンプロ屈指の強豪。戦前金鯱軍の名捕手だった三浦敏一が監督兼務でチームを率いていた。手塚は主力選手だったが1949年に巨人に入団。27歳という遅いプロデビューだった。

 1年目は正三塁手だった山川喜作とポジションを分け合ったが、2年目の1950年には山川が遊撃にコンバートされ正三塁手に。177センチ、77キロと当時としては大柄で、勝負強さが光る打撃で売り出し、この年は川上哲治のあとの5番を打って64打点を記録。一躍注目された。

 しかし翌1951年、宇野光雄に三塁のレギュラーを奪われた。宇野は慶應義塾大学野球部の監督から戦後巨人に入った変わり種。巨人でも2軍監督をしながら時折1軍の試合に出ていたが、前年後半に3割をマークし、1951年は選手専業に戻って手塚のポジションを奪った。宇野は30歳の手塚より4歳上の34歳だった。以後は控えの三塁手、代打での出場が多かった。

巨人では4番で5試合出場、大洋では青田昇と主軸を打つ

 1953年は一塁に回り、川上哲治の控え選手となったが、1953年5月16日、静岡県営草薙球場での洋松ロビンス(現DeNA)戦に「4番・一塁」で先発出場。1936年の永沢富士雄から数えて19代目の巨人軍4番打者となった。もっとも、この試合では2打席凡退で、川上と交代。巨人では5試合に4番打者としてスタメン出場したが13打数3安打0本塁打1打点、打率.231に終わっている。

 1954年には再び三塁に復帰、チーム最多の99試合で三塁を守ったが、翌1955年に洋松から改称した大洋ホエールズに移籍。これも巨人出身の強打者・青田昇と主軸を打ち、規定打席に到達した。しかし翌1956年はレギュラーの座を奪われ、成績も低迷して引退した。最終年は手塚耀朗(てるお)を名乗った。35歳だった。

 通算成績は、629試合1635打数399安打22本塁打194打点21盗塁、打率.244だった。

 引退後は野球界を離れた。手塚氏は終戦後のプロ入りであり、戦前の職業野球ではプレーしなかったが、また日本野球史の生き証人がひとり世を去った。(広尾晃 / Koh Hiroo)

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