平和の願い 本に託して 元教師 高嶌ミヤ子さん(90) 被爆体験記自費出版、寄贈続ける

 「亡くなった人たちの分も、原爆の悲惨さを伝えていきたい」
 17歳の時、長崎原爆で被爆した元教師の高嶌ミヤ子さん(90)=大村市富の原1丁目=は、退職後の2005年に出版した被爆体験記「一動員学徒の原爆体験」(A5判、41ページ)を増刷し、県内外の学校や図書館へ寄贈する活動を続けている。今夏は長崎原爆の当初の投下予定地だった北九州市へ贈った。子どもらに反核平和の願いを広げたいとの思いを本の力に託して、地道に取り組んでいる。
 1945年当時は長崎青年師範学校(諫早市)の生徒で、長崎市の三菱兵器製作所大橋工場に動員され、住吉トンネル工場で働いていた。8月9日は現在の住吉町にあった寮で被爆。体に無数のガラス片が突き刺さり、小片は今も体内に残る。体験記には、その後の経緯や目撃した惨状の数々が克明につづられている。
 同市内で被爆して重傷を負った弟は、原爆投下の約1年後に死亡。投下から3日後に弟を捜して同市に入った母も、同じ頃に体調を崩し、弟の後を追うように亡くなった。捜索に同行して入市した姉は約30年後、原爆症でこの世を去った。
 戦後は、県内の中学校や小学校で教壇に立った。在職中は「原爆を思い出すと胸がいっぱいになる」と、被爆体験を口にしたことは一度もなかった。だが被爆者の高齢化が進む中、「生き残った者の責任」と考え、被爆60年に合わせて体験記を書き上げた。
 元教師だった経験から「先生たちに本を教材として役立ててほしい」と願う。体験記は出版当時、県内の全小中学、高校、図書館に1、2冊ずつ送付。その後も長崎市の平和公園などで修学旅行の引率教師に手渡したり、教え子が開く同窓会で配ったりしてきた。2016年、兄らが暮らす縁から千葉市の学校、図書館へ贈り、同市から感謝状を受け取った。
 北九州市への寄贈は17年の長崎原爆の日、同市で原爆犠牲者慰霊式典が開かれたことを新聞で知ったのがきっかけ。今年8月までに市立の学校、図書館への分を送付。市長名で感謝の手紙が届いた。これまでに配布した総数は「覚えていない」が、少なくとも数千冊に上りそうだ。
 費用はすべて自身で負担。「同級生は黒焦げになって、初任給ももらえず亡くなった。私は定年まで勤めて、生きててよかったのかなと思う。被害者の“叫び”を世に広げないと申し訳ない」。そんな気持ちが背中を押す。「県外の子どもたちに、原爆が古里に落ちたらと考えてほしい。体が動く間は活動を続けたい」と話した。

「県外の子どもたちにも、もし原爆が古里に落ちたらと考えてほしい」と話す高嶌さん=大村市東本町

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