最も<古くて・新しい大学>筑波大学~その創成する精神、IMAGINE THE FUTURE~ 「開かれた大学」「教育と研究の新しい仕組み」それに「新しい大学自治」

筑波大学キャンパス(関東甲信越で最大の広さ)

文武両道「二つのメダル」

「本学は二つの金メダル獲得を目指しています。一つはノーベル賞のそれ、もう一つはオリンピックのそれです」、「本学は国内外に<開かれた大学>を積極的に進めています。世界のトップレベルの研究者でUniversity of Tsukubaを知らない人はいないと思います」。

筑波大学の複数の副学長氏が確信に満ちた口調でこう語り笑顔をつくった。講道館創始者・嘉納治五郎の生涯を追って、同大学附属図書館での取材や大学内外での資料収集を重ねるにつれて、副学長氏の発言は決して勝手な誇張や理想論ではなく、現実の確実な動きを語っていることを知った。国立大学や高等研究機関で「一つの金メダル(ノーベル賞)」を目指せる大学は少なくないかもしれない。だが「二つの金メダル獲得」を目指せるのは筑波大学にまず指を折るのが順当のようである。

筑波山の麓付近に広がるつくば市には3つの大学がある。国立大学法人筑波大学、同筑波技術大学、学校法人(私立)筑波学院大学である。この中で頭脳都市・筑波学術研究都市を代表するのが筑波大学であることは論を俟(ま)たない。同大学の「建学の理念」を確認する。「筑波大学概要」から引用する。

「筑波大学は、基礎及び応用諸科学について、国内外の教育・研究機関及び社会との自由、かつ、緊密なる交流関係を深め、学際的な協力の実をあげながら、教育・研究を行い、もって創造的な知性と豊かな人間性を備えた人材を育成するとともに、学術文化の進展に寄与することを目標とする」
「従来の大学は、ややもすれば狭い専門領域に閉じこもり、教育・研究の両面にわたって停滞し、固定化を招き、現実の社会から遊離しがちであった。本学は、この点を反省し、あらゆる意味において、国内的にも国際的にも開かれた大学であることを基本的性格とする。そのために本学は、変動する現代社会に不断に対応しつつ、国際性豊かにして、かつ、多様性と柔軟性とを持った新しい教育・研究の機能及び運営の組織を開発する。更に、これらの諸活動を実施する責任ある管理体制を確立する」
「建学の理念」のキイワ―ドは「あらゆる意味において、国内的にも国際的にも開かれた大学」である。

                  ◇
同大学に取材で出向くと、まず広大な緑豊かなキャンパスに圧倒される。木々の緑が映え、空気は都心の大学では想像も出来ないほど新鮮である。ふとかつて訪ねたアメリカ北東部の州立大学キャンパスにたたずんでいるような錯覚を覚える。リスでも飛び跳ねていれば北東部のキャンパスそのものである。2系統のバスが巡回するキャンパスの広さは、「2014年版大学ランキング(朝日新聞出版)」によると、校地面積は1311万6510m2で、全国の国公私立あわせて9位、校舎面積は70万950平方メートルで3位である。宿舎なども含めた敷地面積は2位(一時は1位だったが、今は九州大にトップの座を譲っている)であるとのことだ。いずれにせよ広大な敷地の確保が容易でない首都圏の内外(関東地方)にある大学では群を抜いて広いのである。学生数は、やや古いが、2014年5月現在で、学群(学部学生)9798人、外国人(自費留学生)学生68人、外国人留学生(官費留学生)276人。大学院生6661人、外国人学生66人、外国人留学生1230人。総合大学としては際立った数字とは言えないが、大学院生の数が多いことが目に着く。文字通り「大学院大学」なのである。「開かれた大学」として海外からの留学生が相当数に上っている。アフリカや南米からの留学生も少なくない。

構内のペデストリアンデッキや森の中の歩道を歩くと、スクールカラーのライトブルー(大学では「ツクバブルー」と呼ぶ)に「IMAGINE THE FUTURE」と書かれた横断幕をよく見かける。同大学の「ブランド・スローガン」である。<商標(ブランド・イメージ)>のスローガンである。同大学1期生でコピーライターとして活躍している一倉宏が母校に夢を託して贈ったものだという。
2018年10月、筑波大学は開学45年の節目の年を迎えたが、その歴史は古く文明開化期の明治5年(1872)にまで遡る。この年、新橋・横浜間に鉄道が開通した。徴兵令が公布されたのもこの年である。筑波大学の創起は旧帝大系の国立大学(東京大学を除く)よりも古いことに注目したい。副学長氏は言う。「最も<古くて・新しい>国立総合大学」。

ツクバ・ブルーの横断幕(筑波大学キャンパス)

教壇に立った漱石

同大学は明治政府の学制発布と同時に発足した日本初の教員養成校・師範学校が原点(母体)である。その後、東京師範学校と体操伝習所(今の体育学群の原点)となり、さらには東京高等師範学校(今日の高校にあたる旧制中学以上の教員養成校)と発展した。女子の高等教員養成校として東京女子高等師範学校(現お茶の水女子大)が開校している。両校とも戦前の東京の文教地区にキャンパスを構えた名門校で、高等教育界の指導者育成を目指したことから官費支給の優遇措置があった。

昭和24年(1949)、東京文理大学・東京高等師範学校・東京体育専門学校・東京農業教育専門学校の国立4校が統合して東京教育大学の発足となった。筑波研究学園都市への移転を契機に、昭和48年(1973)10月、筑波大学が誕生した。この年元筑波大学長江崎玲於奈博士がノーベル物理学賞を受賞している。平成14年(2002)図書館情報大学と合併し他の総合大学では見られない学群が誕生し、2年後には国立大学法人となり今日に至っている。
                  ◇
エピソードは明治26年(1893)に遡る。若き文学士夏目金之助(後の文豪漱石)は東京高等師範学校の教壇に立った。1世紀半の同校史のエッポクの一つと考えたい。秀才夏目金之助は東京帝国大学文科大学大学院(英文学専攻)に進んだ後、同年10月、東京高等師範学校の英語教師嘱託となる。26歳。

「夏目漱石」(小宮豊隆)の「就職」から引用する。(小宮豊隆は漱石門下のドイツ文学者。以下原文のママ)。

「漱石が(大学を)卒業してから、漱石の成績が非常によかったので、方々に就職口があった。その中で、学習院の口は、仲に立った人が大丈夫だというので、漱石はモーニングを拵(こしら)えて待っていると、その職はアメリカ帰りの人か何かにとられてしまい、仕方がないから漱石は、一張羅(いっちょうら)のモーニングを着て方々あるいていたという話は、漱石の講演『私の個人主義』の中に出ている」。
「その後、漱石には、高等学校(現東京大学教養学部)と高等師範と両方から、殆ど同時に口が掛った。『私の個人主義』に、「私は高等学校へ周旋(しゅうせん)してくれた先輩に半分承諾を与えながら、高等師範の方へも好い加減な挨拶をしてしまったので、事が変な具合にもつれてしまいました。(中略)。すると或る日当時の高等学校長、今では慥(たし)か京都の理科大学長をしている久原さんから、ちょっと学校まで来てくれという通知があったので、早速出かけて見ると、その座に高等師範の校長嘉納治五郎(かのうじごろう)さんと、それに私を周旋してくれた例の先輩がいて、相談は極まった、こっちに遠慮は要らないから高等師範の方へ行ったら好かろうという忠告です。私は行掛かり上否(いや)だとはいえませんから承諾の旨を答えました。が、腹の中では厄介な事になってしまったと思わざるを得なかったのです。というものは今考えると勿体ない話ですが、私は高等師範などをそれほど有難く思っていなかったのです。嘉納さんに始めて会った時も、そうあなたのように教育者として学生の模範になれというような注文だと、私にはとても勤まりかねるからと逡巡した位でした。嘉納さんは上手な人ですから、否そう正直に断られると、私は益々(ますます)貴方に来て頂きたくなったといって、私を離さなかったのです。こう言う訳で、未熟な私は双方の学校を掛け持ちしようなどという欲張り根性は更になかったにかかわらず、関係者に要らざる手数を掛けた後、とうとう高等師範の方へ行く事になりました」と書いてある。(教官夏目金之助が教師や学生と一緒に撮った写真が残されている)。―この嘉納治五郎の言葉は、『坊っちゃん』の中で、新任の坊っちゃんに言う、狸(校長)の言葉に酷似するところを持っている。しかしそれは今ここでは問題ではない。当時漱石が受け取った月給は37円50銭であった。明治26年(1893)10月の日付で「高等師範学校英語授業を嘱託し1ヶ年年金450円給与」(原文カタカナ)という辞令が、高等師範校から出ている。明治26年10月27日狩野亨吉(学友)宛の漱石の手紙には、「生義兼(かね)て御出京中は種々御配慮を煩はし候処、その後高等師範学校英語教授の嘱託を受け、去る19日より出講仕(つかまつ)をり候へば乍憚(はばかりながら)御安息可被下(くださるべく)候」と書いてある」。
                  ◇
夏目教員は2年間東京高等師範学校の教壇に立った後、突然同校を辞して明治28年(1895)4月、愛媛県尋常中学校(後に松山中学校を経て現県立松山東高校)の教諭として松山に赴任する。月給80円は校長より高く破格の厚遇であった。だが、なぜ<江戸っ子>金之助が郷里東京を捨てて四国に「都落ち」したのか、その要因は今日も「謎」とされている。強度の神経衰弱に陥っていたとの説もある(失恋説もあるが、評論家半藤一利氏らは否定的である)。松山は周知のように「坊っちゃん」の舞台である。

日本の大学で最大の総合体育館(筑波大学キャンパス)

漱石の高等師範への影響

漱石の英語教育が高等師範学校にどのような影響となって受け継がれたかは、私には論じることは出来ない。東京高等師範英語英文科の卒業生で同校や東京教育大学で長く英語英文学を講じた英文学の泰斗福原麟太郎(1894~1981)は「夏目漱石」(荒竹出版)の「英語教師の挑戦」で「英語教師は、いつでも、夏目漱石に挑戦している」と冒頭で書いている。そして漱石に影響を受けた作家や英文学者を列記した後書く。

「英語教師は、英会話をしたり、(英文の)手紙を書いたり、レッテルを読んだりする稽古事(けいこごと)の先生では決してないのである。英米人は、いかに生きるか、いかに考え、いかに感じるかを、生の英語を教えることによって、日本の青少年に伝える役目を持っている。それが窓の第一の効用である。窓よ明るく開け。(中略)。(英語教師は)やはり、漱石に挑戦してみてほしい。漱石に挑戦するほどの人は、向学の精神に満ち、文学の喜びによって生命をいききと伸ばしたいと思っている人だ」

福原はわずかに2年間とはいえ若き漱石が母校の教壇に立ったことを同じ英文学を専攻する後進の学究として誇りに思っている。

若き漱石を高等師範学校の英語教師に招いた初代校長・嘉納治五郎(1860~1938)については、連載ですでに2度取り上げている。同校の偉大な校長嘉納を語ることは、高等師範学校から東京教育大学を経て筑波大学まで(明治・大正・昭和・平成まで)の1世紀半の間校風として受け継がれて来た「文武両道」や国際性尊重の精神を語ることになる。つまり「二つの金メダル」の原点を再確認することになる。

■日本オリンピックの父・講道館創設者、嘉納治五郎~その大いなる精神と実践~
http://www.risktaisaku.com/articles/-/6005

■講道館柔道の祖・嘉納治五郎・再説~その国際感覚と徹底した平和主義~
http://www.risktaisaku.com/articles/-/8946

講道館柔道の創始者としても知られる嘉納は、明治・大正期の著名な教育家であるだけでなく、日本の初代IOC(国際オリンピック委員会)委員、日本体育協会の創設者である。貴族院議員でもあった。

嘉納は、幕末に摂津国御影町(現兵庫県神戸市東灘区)の酒造家嘉納治郎作の三男として生まれる。進学校で知られる私立灘高の構内にも嘉納の像が立っている。同校の事実上の創建者だからである。明治8年(1875)東京帝国大学の前身、開成学校に入学する。勉学のかたわら福田八之助について天神真楊流、飯久保恒年について起倒流の柔術を学ぶ。明治15年(1882)卒業して、学習院英語教師となるかたわら、下谷稲荷町の永昌寺の書院を借り、塾を開いて「講道館」と名付け塾生に柔道を教える。今や世界共通語となった柔道(ジュードー)は嘉納の造語である。古来の柔術から脱皮したことを意味する。

明治22年(1889)九段富士見町に道場を開き、柔道諸派流の技術を統合し、体育的に再編成した流儀を完成し、講道館柔道の名乗りをあげた。文部省から海外視察に派遣された後、第五高校(現熊本大学)校長となり、文部省参事官、第一高校(現東京大学)校長を経て、明治26年(1893)東京高等師範学校の校長となる。「知育・徳育・体育」の三位一体教育を唱える嘉納は、体育(英語PE(Physical Education)を嘉納が和訳)をしきりに奨励し、体育科を新設してレベルの高い体育教師の育成に努めた。筑波大学はスポーツ競技の各分野で優秀な成績を残し、多くの選手や指導者を輩出している。「スポーツを科学する」。これこそ嘉納の一大遺産であろう。ちなみに名選手・名監督を輩出している同大サッカー部の指導理念は<「良き選手」「良きチーム」「良き指導者」たれ!>である。

校長・嘉納治五郎

嘉納は同校校長を3期23年余りの長きにわたって務めた。明治42年(1909)IOC会長クーベルタン男爵の委嘱により、アジア初のIOC委員に就任した。明治44年(1911)大日本体育協会を設立し、三島弥彦(東大)、金栗四三(東京高師)の両選手を選抜して自ら団長となり、オリンピックの初参加を実現した(1912年のストックホルム大会)。昭和13年(1938)カイロで開催のIOC総会に出席しての帰途、氷川丸船中で肺炎のため急逝した。享年77歳。
                ◇
筑波大学は国立大学ならではの「手堅い」伝統と特色を生かしながらも、日本で初めての抜本的な大学改革を行ない、「開かれた大学」「教育と研究の新しい仕組み」「新しい大学自治」を特色とした新構想大学として、旧態依然たる大学の改革に先導的役割を果たした。教育研究の高度化、大学の個性化、大学運営の活性化など、活力に富み、国際競争力のある大学づくりを推進しているという。大学改革の一つに学部制を廃止して学群・学類制を導入したことがあげられる。

「大学概要」によれば、9つの学群は、教育上の目的に応じて組織され、学部段階の学生の教育指導について包括的な責任をもつ組織である。学類は、学群に属し、学生の教育指導について基礎的な責任をもつ組織である。大学院は8つの学群である。その大きな特徴を具体的に記せば、(1)専門分野を異にする教員及び学生との接触・交流を通じて、広い視野を養い、豊かな人間形成に資するよう配慮する。(2)既存の学問の体系に必ずしもとらわれることなく、教育上の観点から将来の発展の基礎を培(つちか)うことができるようにする。いわばクロスオーバーさせた学科なのである。同大学の「顔」の一つともいえる体育専門学群と芸術専門学群には学類はない。旧来の文系・理系といった「壁」を打破しており、既成の概念ではとらえきれない。

生命環境学群を取り上げて見る。同学群は21世紀に入り社会的にも大きな注目を集めている「生命と環境」を共通キーワードとする「生物学類」「生物資源学類」「地球学類」の3学類から構成されている。組織構成員、教育研究分野とも大学院(生命環境科学研究科)とほぼ同一だという。教育目標は問題発見・解決型能力を身につけ豊かな人間性を育むことにより、日本の生命環境科学分野の中心的担い手となる人材、国際的視野に立って活躍できる未来創造型の人材を育成することである。

医学群では医学類に加えて看護学類、医療科学類があり、国家試験を目指して研究や臨床実験に励んでいる。国家試験の合格率は全国でもトップクラスである。国際的に評価された論文も少なくない。

参考文献:筑波大学「IMAGINE THE FUTURE by AERA」(朝日新聞出版)、「筑波大学の40年」、筑波大学附属図書館資料

(つづく)

© 株式会社新建新聞社