外道「伝説のファースト・アルバムを再現したライブ・アルバム&新曲とセルフカバーを織り交ぜたスタジオレコーディング・アルバムをセットにしたデビュー45周年記念作品の変わらぬ凄みと迫力」【前編】

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45年前の勢いに負けない気持ちが今もある

──まず、今年の6月17日(日)に新宿の全労済ホール/スペース・ゼロで開催された外道のファースト・アルバム再現ライブについて伺いたいのですが、45年ぶりに当時の演目をそのまま再現してみていかがでしたか。

加納:緊張感はけっこうあったけど、すごく楽しかったですよ。昔の勢いに負けないようにやらなくちゃという気持ちが自分の中にあったのも確かめられたし、まだ行けると思ったし、行けなくなる人も多いじゃないですか。「昔は良かったね」なんて言われるようじゃやっててもしょうがないし、今の外道も全然オッケー! ってところを見せられて良かった。45年経っても音楽に対するエネルギーや情熱が音にちゃんと込められているかどうかはすごく大事なことだし、昔の曲を今やっても全然大丈夫なんだなというのが自分でもわかって良かったですよ。

──しかも、そうる透さん(ds)と松本慎二さん(ba)という鉄壁のリズム隊とのアンサンブルで当時よりも格段にパワフルに進化した外道を見せられたわけですからね。

加納:当時はPAはあってもモニターがまだない時代で、マーシャルのアンプを3台も並べると歌なんて何にも聴こえない状態でね。それでも普通に知らん顔して唄ってましたけど(笑)。そういう意味じゃ今は随分とラクになりましたけど、基本的にどんな状況でも演奏ができなきゃダメですからね。むしろ良い条件や環境でライブをやれるほうが少ないし、ほぼぶっつけでどこでもやれるようじゃないといけない。たとえばストーンズやポール・マッカートニーみたいにあれだけのスタッフを引き連れて楽器や機材を運ばせるようなら良い状況でやれるでしょうけど、そんなことはまず望めないわけでね。

──でも、機材の環境が悪いほうがバンドは鍛えられますよね。

加納:そうですね。僕はエフェクターのない時代からやってますから、どんな場所でもどんな状況でも何とかしちゃうんですよ。

──再現ライブはほぼ原曲に忠実でしたね。

加納:曲によっては多少演奏の仕方が変わったりしたけど、基本的にはあの当時のままやってみました。時間がこれだけ経っても勢いや雰囲気は当時のままだったと思いますが、時代の変化は感じますね。1枚目を録った当時は独特な時代でしたから。

──当時のライブは冒頭から「おい! デブ! 走んなよ、気持ち悪いから!」「関東大震災が来たよ! 潰れちゃうじゃんかよ!」なんて野次が客席から飛んでますからね(笑)。当時は戦後初めてGNPがマイナス成長を示したり、学生運動も下火になって、社会や政治に関心を持つよりも個人主義的な快楽を求める生活スタイルに変化していった時期でした。

加納:会場からそんな匂いがしますよね。そういう時代背景は当然違っているけど、今の外道は当時の勢いに負けないようにやってますよ。

──加納さん自身は45年前の曲をいま改めてやることに抵抗はないんですか。

加納:全然ないです。今でも平気でやってますから。この間も『なにわブルースフェスティバル』に出て、みんながブルースを演奏する中でも平気で「香り」と「ダンスダンスダンス」をやってきましたからね。ブルースも多少やりましたけど、お客さんに外道コールをさせたりして(笑)。上田正樹が「今日はブルースのフェスなのに大丈夫?」とか言ってましたけど(笑)。

──1974年当時は歌謡曲とシンクロしたフォークソングが市民権を得ていたものの、日本語でロックをやるバンドはほぼいませんでしたよね。

加納:ロックを聴いたことがない人がほとんどでしたよ。バンド自体も少なかったし、ロックをやるにも相当すごいことをやらないとステージには立てない時代でした。

樹木希林の粋な意趣返し

──ロック・バンドはおろか外道のようにプロトパンク(パンク・ロックが確立する以前のパンクの総称)の曲をやるバンドは皆無だったわけで、当時の加納さんはどんな音楽にインスピレーションを受けて「香り」や「ビュンビュン」といった曲を生み出したのですか?

加納:小学生の頃にビートルズを聴いて「音楽を自分の仕事にしよう」と決めて以降、僕は自分のスタイル、自分の歌でやっていこうとしたんです。普通の人は誰かのコピーから始めるけど、僕は最初からオリジナルの曲を作ってたんですよ。ギターも完全に独学だったし、自分のスタイルで音楽をやることしか頭になかった。ギターを始めた頃に出てきたのがジミヘンだったし、バンドを組んだ時に出てきたのがツェッペリンだったし、みんなライバルだと思ってたんです。あいつらには負けてらんない、自分の音楽を作らなくちゃとずっと考えてました。僕は外道をやる前にM〈エム〉っていうバンドに入って、Mは日本で一番歌と演奏の上手いバンドだったけど、カバーばかりやってたんですよ。そのMがオリジナル曲をレコーディングすることになって、作曲家が付くという話を聞いたんです。僕はそういうのが一番イヤでね。それじゃグループ・サウンズと一緒じゃないかと思って。

──それでMを脱退したんですよね。

加納:そうなんです。その後に外道を結成して、ある時、音楽評論家の福田一郎さんと湯川れい子さんと一緒に全国の市民会館を5、60カ所まわったことがあったんですよ。ワーナー・パイオニアか何かの企画で、日本にロックという音楽を広めるためのコンサートでね。それも毎回同じ曲をやると飽きるから、歌詞やメロディをちょっと変えたり、何かしら必ず変えてたんです。その時に頭の上からスコーン!と降りてきたのが「香り」や「ビュンビュン」だったんですよ。僕は中学生の頃にオリンピックに出たくてマラソンを一生懸命頑張ってたんだけど、ギターも練習しなくちゃいけないから、時間節約のためにギターを弾きながら走り込みの練習をしてたんです。あの経験が外道で役に立ったんだと思います。

──スピード感と、それを支える基礎体力を中学生の頃に培ったと。

加納:あの時代、ミック・ジャガーがステージ上で3メートルしか動いてなかった時に、僕はギターを持ちながら50メートルくらい走りまわって演奏できたんですよ。その頃に幽体離脱を経験したり、神様からのお告げを聞いて、それから曲がガンガン降りてくるようになったんです。僕自身には何の作為もなくて、頭上から降りてくるものをただやるだけだったんですよ。誰かのコピーをするわけでもないし、誰かのこんな曲みたいなものを作りたいとか、そういうのは一切ありませんでした。ギターのスタイルも誰かに教わったものじゃないし、自分で作ったバンドも自分の言葉と考えで活動していった。ロックなんてやる人も少なかったし、やるにもみんな英語で唄っていて、そこで僕は「別に日本語でロックをやったっていいんじゃないの?」って外道をやり出したんです。

──「ダンスダンスダンス」では手拍子や三三七拍子、外道コールを盛り込んでみたり、「アロハ・ババア」は漫画みたいにコミカルなストーリー性のある歌詞だったり、外道の楽曲はいま思うと意外とユーモアに溢れた側面があったことに気づきますね。

加納:そうなんですよ。すごくハードな面もあればブルースに根ざした感じもあり、ポップな面もあれば政治的な面もあり、ユーモアに溢れた面もあるといった感じで、一人の人間が普段生活している中で生まれる感情のすべてが外道の音楽にはあるんです。

──批評精神の表れという意味では、内田裕也さんのことを唄った「ロックンロールバカ?」みたいな曲もあったり(笑)。

加納:あんな歌、我ながらよく書いたと思いますよ(笑)。でもね、あの曲は樹木希林さんが沢田研二さんと一緒に全国で唄ってくれてたみたいなんです。ある時、九州に行ったら「『ロックンロールバカ?』が一番人気があるのでやってもらいたいんです」と言われて、なぜかと訊いたら希林さんが唄っていたからって。

──希林さんがクリエイションの演奏をバックに「ロックンロールバカ?」を唄っている音源がYouTubeに上がっていますよね。

加納:そうそう(笑)。当時はそんなこと知らなくて、それを聴いたのはつい最近なんですよ。後から聞いた話だと、希林さんは「ロックンロールバカ?」が大好きだったみたいで、やっぱり希林さんってすごい人だなと思いましたね。

──自分の旦那のことを当てこすりされているのに、粋な意趣返しですよね。

加納:「ヘタな英語でゼニ儲け」「ブスな女房もらったら おっちゃん一躍有名人」なんて歌をよく自分で唄えるなと思いましたね(笑)。僕は希林さんと面識はなかったんですが、実際にお会いしてたら完全に負けてたと思いますね。「あなた大好き!」なんて言われたら参っちゃいますよ(笑)。

日本語でロックを唄っても別にいいんじゃない?

──外道をプロデュースしたミッキー・カーチスさんとはどんな経緯で知り合ったんですか。

加納:どっかのデパートの屋上でつのだ☆ひろのバンドか何かと一緒にライブをやってた時に、ミッキーさんと裕也さんが僕らを観に来たことは覚えてるんです。ある時、横浜の野外音楽堂でのライブをミッキーさんが録りに来るって言われたんですよ。僕はレコードなんて全然興味がなかったし、「録りたかったら録ればいいよ」くらいにしか思わなかったんですね。すごいバンドは作りたかったけど、レコード盤を出したいとか有名になりたいとかは全然思ったことがなかったんです。ただ、どんなバンドと共演しても絶対に負けないバンドを作りたかっただけ。そしたらいつの間にか僕らのレコードが出て、ヒットしちゃったんですよね。

──どれくらい売れたんですか。

加納:ストーンズが7,000枚、ツェッペリンが8,000枚売れてた時代に何万枚も売れて、すごいヒットだったみたいですね。

──そんな他人事みたいに(笑)。ボール紙に「外道」とスタンプを押しただけのジャケットは誰のアイディアだったんですか。

加納:ミッキーさんです。出すのに時間がないし、お金もかからないってことであんな形になったんです。トリオ・レコードへ行ってみんなで判子を押すのを手伝いましたよ。そもそも制作費だって全部で60万円くらいしかかからなかったんです。ただライブを録りに来ただけでしたからね。だけどあんなに売れるとは考えてもみなかった。レコード会社は宣伝を一切しなかったんですよ。バンドが全国でライブをやることが一番の宣伝だったんです。決定的だったのは福島の『ワンステップフェスティバル』に出て、外道を観たオノ・ヨーコさんが裕也さんに「すごいバンドがいる!」と言ってくれたことでした。それで裕也さんが僕らに会いたいと言ってきて、いざ会ってみたら裕也さんは僕のことを覚えていて。

──それまでに面識があったんですか。

加納:僕が16歳の頃、ハコバンでギターを弾いて全国をまわってたんです。裕也さんとは巡業先の広島で共演したんだけど、次のバンドが来ないからまだちょっといてくれないかって裕也さんがオーナーに頼まれて電話で言ってきたんですよ。そのことを裕也さんは覚えていて、『ワンステップフェスティバル』の後に会ったら「あの時のお前か!」って言われたんですね。

──ミッキー・カーチスさんはプロデューサーとして何かアドバイスをくれたりしたんですか。

加納:何にもしないですよ。ライブの現場にやって来て「もう最高!」って言うだけ(笑)。だからアドバイスも何もないんだけど、「日本語でロックを唄っても別にいいんじゃない?」とは言ってくれました。裕也さんは「ロックは英語で唄うべきだ」と頑なに言ってたけど、ミッキーさんは英語も喋れるのに日本語でロックを唄うことに肯定的でした。それと、欧米の音楽の情報を僕にいろいろと教えてくれましたね。外道のオープニングSEである「Slush」は、モンティ・パイソンのニール・イネスがやってたボンゾ・ドッグ・バンドのレパートリーなんですけど、そのボンゾ・ドッグ・バンドのライブをミッキーさんがヨーロッパで観たことがあって、それが面白いってことでオープニングSEに使うことにしたんです。向こうに使わせてくれって連絡を取って、許諾をもらってね。

──加納さん自身は外道のファースト・アルバムをどう捉えているんですか。

加納:新曲をやることになったステージをたまたまミッキーさんが録りに来たってだけですね。これがデビュー・アルバムになるとか、何にも気にしてなかった。自分としては何曲も新曲をやったステージってだけです。「やさしい裏切りを」(のちの「やさしい裏切りの果てに」)なんてライブの前日に作った曲で、メンバーもライブでやることを知らなかったんですから(笑)。当時からキャンピングカーを持ってて、車の中でメンバーと「こんな感じでやるから」って話しながらアコースティック・ギターで練習してたんですよ。アコースティック・ギターで曲作りをして、それをエレクトリック・ギターに持ち替えて、ぶっつけであれをやってたんです。

《後編へつづく》