【MLB】ジャイアンツの伝説、ウィリー・マッコビー氏が死去 メイズと「MM砲」形成

殿堂入りも果たしているウィリー・マッコビー氏(中央)【写真:Getty Images】

「黒人メジャーリーガー」の第二世代にあたる大打者

 10月31日に80歳で死去したウィリー・マッコビー氏は、ジャッキー・ロビンソンが切り拓いた「黒人メジャーリーガー」の第二世代に当たる大打者だった。

 マッコビーは1938年1月10日、アメリカ南部アラバマ州モービルに生まれた。アラバマ州は黒人メジャーリーガーの本場ともいうべき土地で、マッコビーの前に、サチェル・ペイジ、モンテ・アービン、ウィリー・メイズ、ハンク・アーロンらが、メジャーデビューしている。高校から1955年にニューヨーク・ジャイアンツに入団。すでに、ジャッキー・ロビンソンが黒人初のメジャーリーガーになって8年が経過し、各球団には黒人選手がいるのが当たり前になっていた。

 マイナーで4年間プレーして、1959年にサンフランシスコ・ジャイアンツからメジャーデビュー。チームはこの間、1957年に本拠地をニューヨークからサンフランシスコに移転している。

 デビュー時のジャイアンツの中心選手は28歳のウィリー・メイズ。このほか、プエルトリコ出身のオーランド・セペダ、ドミニカ共和国出身のフェリペ・アルーなど黒人のスター選手がひしめいていた。ちなみにこの年、二塁を守っていたのは、のち阪急で大活躍をし「赤鬼」と呼ばれたダリル・スペンサー、右翼を守っていたのは阪神でプレーしたウィリー・カークランドだった。

 マッコビーがメジャーデビューしたのは7月30日。2番メイズ、3番マッコビー、4番セペダ、5番カークランドというオーダーだったが、この試合で4打数4安打2三塁打。ここから52試合で13本塁打を打ち、新人王に選ばれている。しかし、左投手を苦手としたため規定打席に初めて達したのは、4年後の1963年。この年44本塁打で本塁打王になった。

 当初は左翼手だったが、1965年に一塁手にコンバートされ、ここから成績が安定。ウィリー・メイズとともにジャイアンツの中軸として長く活躍。「MM砲」と呼ばれた。

 マッコビーとメイズは1959年から72年シーズン途中にメイズがメッツに移籍するまでコンビを組み、メイズ430本、マッコビー384本、合わせて814本塁打を記録。これは、ベーブ・ルース511本、ルー・ゲーリッグ348本、合わせて859本塁打に次ぐ記録。移籍が多いMLBでは、極めて珍しい。

ウィリー・メイズと「MM砲」、フアン・マリシャルと「ジャイアンツの3M」

 MLBの「MM砲」といえば、1961年ベーブ・ルースの60本塁打を抜く61本塁打を記録したヤンキースのロジャー・マリスと54本塁打のミッキー・マントルの2人を指すことが多いが、マッコビー、メイズの「MM砲」のほうがはるかに実績は上だ。

 またジャイアンツの大投手で、243勝して殿堂入りしたフアン・マリシャルとともに「ジャイアンツの3M」とも呼ばれた。

 193センチ89キロ、当時のMLBでは大柄な選手。長打力は抜群で、しばしば特大のホームランを打った。1966年9月16日のメッツ戦の2回裏にはジャック・フィッシャーから152mの特大弾を放つ。当時のジャイアンツの本拠地キャンドルスティック・パークの最長本塁打記録となった。

 メイズの衰えとともに、チームの大黒柱となり、1968年、69年と2年連続で本塁打、打点の2冠王。69年にはMVPに選ばれた。この年から中軸を組んだのは、バリー・ボンズの父のボビー・ボンズだ。1970年には日米野球で来日し、東京球場で行われたロッテとの第2戦で本塁打を打っている。

 1973年オフ、パドレスにマイク・コールドウェルとのトレードで移籍。このときマッコビーと抱き合わせで移籍したのがのちに阪急で活躍したバーニー・ウィリアムスだ。

 1976年8月にはアスレチックスに金銭譲渡されるが、オフにFAとなり、ジャイアンツに復帰した。1977年は、日本でMLB中継が始まった年だが、39歳にして28本塁打、86打点、打率.280を記録。奇跡の復活と言われカムバック賞を受賞した。1980年、42歳で惜しまれつつ引退。

 2588試合8197打数2211安打521本塁打1555打点、打率.270。MVP1回、本塁打王3回、打点王2回、オールスター選出6回。背番号「44」はジャイアンツの永久欠番になった。1986年、選出資格を得た1年目に81.4%の得票でMLB野球殿堂入りを果たした。

 あだ名は「Big Mac」「Stretch」。ジャイアンツでの人気は絶大で、ジャイアンツが2000年に開場した新本拠地AT&Tパークの右翼席後方の入江は「マッコビー湾」と命名された。強打者が場外ホームランを打つと、「マッコビー湾」にはカヌーでホームランボールを追いかけるファンの姿が見られる。

 王貞治、張本勲の2歳年上、デビュー年は同じ1959年。昭和の日本人選手にとって手本となった大打者の一人だった。(広尾晃 / Koh Hiroo)

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