田川「伊能忠敬ウオーク」5回目 参勤交代の道、史実裏付ける写真 残された情報、調査必要 [福岡県]

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江戸時代に日本初の実測日本地図「伊能大図」を作成した測量家、伊能忠敬(1745~1818)がたどった田川の道を巡る「『伊能忠敬の歩いた道』ウオーキング」が、伊能の没後200年の今年、5回目になった。田川郷土研究会(中野直毅会長)の企画で、文献に照らしながら歩いた距離は地図上で約12・5キロ。これを基に伊能が1812年と13年の2回の測量で通った田川の道が計約52・5キロだったと推計すると、4分の1に当たる。歩いて住民の話を聞くフィールドワークにより、新たな発見が次々と出てきている。

2016年10月に初めて開催したウオークの事前調査から、大きな発見があった。伊能は「測量日記」で、1813年10月10日に「後藤寺村、左蛭子宮昼休武兵衛」と記している。この「武兵衛」とは誰か? 中野会長らが聞き込みをすると、何と田川市の後藤寺商店街近くで子孫にたどりついた。

90代の女性。「あら、忠敬さん。うちのご先祖が接待したと聞いている」という。女性によると、武兵衛は二村武兵衛(ぶひょうえ)といい、測量隊が休憩した場所が特定できた。さらに「蛭子宮」の位置から、測量隊はこれまで伝えられていたコースより、100メートル以上北を通っていると推認された。

貴重な証言は、田川市伊田から香春町までを歩いた5回目でもあった。研究会が現在の田川市鉄砲町周辺で事前調査をした際、地元の80代の女性が「江戸時代に参勤交代の道だったと聞いている」と証言したのは、須佐神社横から入る山林の細い坂。幅2~3メートル。ウオーク参加者は「ここを大名かごと馬、行列が通っていたのか」と感慨深げだった。

測量日記を裏付ける物証も出てきた。

昨年7月に大任町を歩いた「下今任-香春編」。測量日記には「下今任十輪院にて小休 宝蓋松あり」と記している。昭和期の鉱害復旧事業の後、現在の十輪院周辺にそのマツはない。しかし、調査の過程で大正時代に撮られた写真約100枚が見つかり、その中に大きなマツが写っていた。「確かに、伊能はここを歩いている」と確信できた。

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ウオークのキーワードは「伊能忠敬と測量隊員になった気持ちで歩こう」。確かに、地元の道をたどり歴史を知ることは楽しい。10月10日のウオークには小学生も参加し、「学校で習った伊能忠敬がとても身近になった」と、はしゃぎながら軽やかに歩いていた。

没後200年。中野会長は「今がとても重要な時期だ」と考えている。測量隊が来たことが、昔からある家々にかろうじて伝わっていると感じるのだ。地域の古老が知っている情報が失われる前に、調査を進める必要がある。

一方で、ガイド不足も課題になってきた。2年前の初回、63人だったウオークの参加者は、5回目は126人と倍増した。ただ、案内できるガイドは現在3人。参加者の期待に応えるためにも、ガイドの育成に取り組まなければならない。

=2018/11/11付 西日本新聞朝刊=