46歳、現役パラアスリートのいま。東京2020で叶える4大会連続出場

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国内で関心が高まりつつあるパラスポーツ。数多くの競技種目があり、世界で活躍する日本人選手も少なくありません。しかし、まだまだ世の中に浸透しているとはいいがたく、競技を行ううえでは課題もあることでしょう。

そこで今回は、2008年北京、2012年ロンドン、2016年リオと3大会連続でパラリンピックの車いす陸上に出場し、世界パラ陸上競技選手権大会ロンドン2017では日本代表の主将を務めるなど、日本のパラアスリート界をけん引している松永仁志選手に、出場すれば4大会連続となる東京2020、これまでの自身のキャリア、そしてパラスポーツの現状と未来などについて話を聞きました。

本気になれなかった自分の気持ちに火をつけてくれた出来事

高校2年生の頃、交通事故によって障害を抱えることとなった松永選手。もともと陸上競技選手だったそうですが、最初はまったく異なる競技にも取り組んだと語ります。

「事故の後は、リハビリなど復帰までかなり時間を要しました。それ以前から陸上に取り組んではいたものの、すぐにパラ陸上選手としての道を歩んだわけではありません。最初は、車いすバスケとマラソンに取り組みました」

幼少の頃からスポーツは得意だったという松永選手。どんな競技でも、少しやってみるとある程度はできるようになったのだとか。しかしその反面、何かを代表するようなレベルには至らず、むしろ自身もそれを目指してこなかったのだそう。

「代表レベルになるためには、本当の努力が必要だと思います。それを、私は避けてきました。努力して負けたらカッコ悪いとか、そういう気持ちがあったんです。これはパラスポーツでも変わらず、20代後半には岡山県内で1~2番になったものの、それ以上は別世界だと思っていました」

競技には取り組みながらも、なんとなく充実しない毎日。その理由は自身でも分かっており、本気で全力を出して取り組んでいるものがなかったから。事故によって、人生から華やかさが失われてしまったのです。取り組んできたパラスポーツも、やはり松永選手を本気にさせることはできなかったのだと言います。しかし、そんな気持ちに火をつける出来事が起きたのでした。

「20代後半から陸上競技にシフトして、2000年のシドニー選考レースに挑戦したときのこと。当然ながらまったく勝負にならず、代表とのレベルの違いを痛感しました。その後、シドニーではじめてオリンピック・パラリンピックを真剣に見たんですよ。映像を入手したり、自分なりに調べたりしながら。何万人という歓声の中で、あのとき一緒に走った選手たちが競技している。その姿を見たら、なんだか人生を掛けるだけの価値を感じたんですよね。このことをキッカケに、本気でやってみようと決意しました」

それまで自己流だった練習は、大分県まで通って当時の日本代表コーチから指導を受けることに。週末は大分県、その他は地元で練習という日々が始まりました。遠方ではありますが、パラスポーツは指導者の存在も、まだまだ少ないということでしょう。

周囲の理解と意識にこそ課題がある

本気で競技に取り組むことを決めた松永選手。給与のすべてを遠征費に費やすほどの強い気持ちで、強くなりたかったのだと語ります。しかしそのための環境は、けっして整ったものではありませんでした。

「仕事が遅いときには21時ごろに帰宅し、暗い中、夜にライトを点けながら走ることもありました。結果的にプサンのアジア大会で初めて日本代表に入ることができましたが、練習環境も課題は多かったですね。そもそも陸上競技用車いすなんて、滅多に見ることはありませんよね。見慣れないものが公道を走る……すると危ないと感じたり、変なものが走っていると不審がられたりするんです。何度か通報されたこともありますよ」

地域住民からの理解。今でこそ応援の声をかけられるようになったものの、当時、周囲の目は冷ややかだったようです。まさに、前例のないものは受け入れがたいということなのでしょう。

「やっと、ある程度の市民権は得られてきたかなと思います。しかし、ここからが重要ですよね。2020年の東京オリンピック・パラリンピックを控え、現在は盛り上がっています。しかし大会後、そうしたスポーツがどのように文化として残ることができるのか。日本人はスポーツを商業的に観ることはあっても、純粋に“楽しみ”として観ることがありません。外を出歩いていたとき、ふと目にしたスポーツの試合を、ちょっと寄って観ていこうか……というようにはならないんです。パラスポーツも同じで、もっと人々にとって身近な文化として定着してほしいと思っているんです。言ってしまえば、健常者が陸上競技用車いすに乗ったっていいんですよ。そうすれば、もっといろいろなスポーツが楽しめるじゃないですか」

このコメントには、私自身もハッとさせられました。たしかにパラスポーツ用の器具だからといって、健常者が使ってはいけないという決まりはありません。こちら側が勝手に“障がいがある人のためのもの”と線引きしてしまっているのだと気づきました。この意識こそ、パラスポーツにおける大きな課題の1つなのではないでしょうか。そのために松永選手は、子どもたちにこそもっとパラスポーツを知る機会が必要だと話してくれました。これからを担う子どもたちの意識が変わることで、障がい者に対する分け隔てのない文化が作られていくのかもしれません。

リオから東京までの4年間は、ご褒美期間

最後に、今後の目標についてお話を伺いました。2020年東京パラリンピックに出場すれば、パラリンピック4大会連続出場となる松永選手。東京2020を目前に、どのような気持ちで取り組まれているのでしょうか。

「私は現在46歳ですが、正直に言って、なかなか結果が残せなくなってきました。実のところ、本当はリオで最後だと思っていたんです。しかし周囲の方々が、もう4年やってほしい、やっていいよと言ってサポートしてくれます。そうした声を聞いたとき、選手として若手にもっと見せられるものがあると思ったんです。もちろんすばらしい成績を残せるに越したことはありませんが、それがすべてではありません。負ける姿勢や、それでも努力する姿勢。あるいはスランプを乗り越える姿など、若い選手たちが壁を乗り越えるためのヒントを残せると思うんです。ですから、リオ大会が終わって2020年までの4年間は、自分にとってご褒美期間だと考えています。与えられた時間を最大限に生かし、その中で、もちろん最後に東京パラリンピックの場へ立てたらいいですね。まずは代表になることを目指し、自分にできることを精一杯やるだけです」

松永選手はプレイヤーであるとともに、所属チーム「グロップサンセリテWORLD-AC」において各選手をまとめる立場も担っています。自分自身の競技はもちろん、若手の育成までを見据えたコメントといえるでしょう。松永選手は東京が最後だと語りましたが、その雄姿を見ることができるよう期待しています。そしてその先では、また違う立ち位置から、パラスポーツの変革や繁栄に貢献してくれることでしょう。

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[プロフィール]

松永仁志(まつなが・ひとし)

1972年9月15日、大阪府生まれ、岡山県在住。グロップサンセリテWORLD-AC所属。高校2年の頃、交通事故による脊椎損傷で両下肢の機能を失う。2004年から車いす陸上のプロアスリートとして活動を始め、2008年北京パラリンピック、2012年ロンドンパラリンピック、2016年リオパラリンピックで車いす陸上日本代表となる。NPO法人桃太郎夢クラブでは、車いす陸上競技アドバイザーとして団体運営にも関わる。

[筆者プロフィール]

三河賢文(みかわ・まさふみ)

“走る”フリーライターとして、スポーツ分野を中心とした取材・執筆・編集を実施。自身もマラソンやトライアスロン競技に取り組むほか、学生時代の競技経験を活かし、中学校の陸上部で技術指導も担う。またトレーニングサービス『WILD MOVE』を主宰し、子ども向けの運動教室、ランナー向けのパーソナルトレーニングなども行っている。4児の子持ち。ナレッジ・リンクス(株)代表。

【HP】

http://www.run-writer.com

<Text & Photo:三河賢文>