今月、日本代表に山中亮輔(横浜F・マリノス)が初招集された。
山中といえば、Jリーグ有数の左足を持つ左サイドバックとして知られ、森保一監督も発表会見の場で「“スペシャル”なものを持っている」と、彼の左足について期待感を述べている。
現在、日本代表は長友佑都が不動の左サイドバックとして君臨するが、彼は右利きであり、過去を振り返ってみても都並敏史、相馬直樹ら著名な左サイドバックは「右利きの左サイドバック」であった。
上記の選手たちは皆ほぼ両利きに近かったものの、そうは言っても、左利きの選手が供給するクロスの軌道は独特のものがあり、もし実力が同等であるならば左利きであるに越したことはないはず。
そこで今回は、「オフト体制以来の日本代表」で「1試合以上に先発したことがある左利きの左サイドバック」を特集してみよう。
藤春廣輝
日本代表:3試合0得点(2015)
ガンバ大阪で「三冠」を経験し、2015年3月に日本代表へ初招集。縦のサッカーを志向するハリルホジッチ監督からその高い走力とクロスを買われ、3試合に先発した。
ただオーバーエイジで選出された2016年リオ五輪では若手の力になれず、コロンビア戦で痛恨のオウンゴールを献上したこともあって評価を大きく下げてしまっている。
車屋紳太郎
日本代表:4試合0得点(2017~)
先日Jリーグ連覇の偉業を成し遂げた川崎フロンターレで主力を務める車屋。
クラブではセンターバックと併用されるが、「国内ナンバーワンの左サイドバック」とも評価されており、日本代表でも昨年10月の初選出以来、定期的に招集されている。
今回は山中に譲ってしまったが、いずれまた代表へ返り咲いてくることであろう。
村井慎二
日本代表:5試合0得点(2005-2006)
ジェフや磐田、大分で活躍した村井。本来は左サイドのアタッカーだが、ジーコ体制の日本代表では左サイドバックで起用された。
一時期は三都主アレサンドロの控え一番手の位置にあった。しかし2006年ワールドカップを目前に控えたブルガリア戦で負傷し、本大会を逃すとともに代表からも遠ざかることとなっている。
太田宏介
日本代表:7試合0得点(2010-2015)
若手や大学生などが呼ばれたことで話題となった2010年1月のアジア最終予選・イエメン戦で日本代表デビュー。
そこからJリーグで経験を積み、アギーレ体制下で4年9か月ぶりに代表復帰を果たすと、親善試合で好プレーを見せアジアカップのメンバーに生き残った。
ハリルホジッチ体制の発足後も初アシストを記録するなど結果を残したが、その後は移籍したオランダで成功とはならず、次第に代表から遠ざかることとなった。
遠藤昌浩
日本代表:8試合0得点(1994)
「ベルギーリーグで初めてプレーした日本人」として知られる遠藤。
元は快足を武器にしたFWだったが、ジュビロ磐田時代にオフト監督からコンバートを命じられて大成し、ファルカン監督が率いる日本代表で8試合に出場した。
なお、現在は改名し「遠藤雅大」となっている。「ベクトル」という言葉を多用した解説でもお馴染みだろう。
岩本輝雄
日本代表:9試合2得点(1994)
甘いマスクで女性に人気があった天才肌の技巧派レフティー。
今では何やらアイドルの追っかけとして知られているようだが、その左足の精度と威力は現在でも語り草となるほど。仙台時代にはロベルト・カルロスを彷彿とさせる長い助走から40メートル級のフリーキックを決めている。
ファルカン監督が就任した日本代表では中盤の左サイドや左サイドバックで起用されている。ただ体制が短命に終わったため、以後、彼が招集されることはなかった。
服部年宏
日本代表:44試合2得点(1996-2003)
ジュビロ磐田で黄金時代を築いた守備マスター。
「マイアミの奇跡」を演じたアトランタ五輪のブラジル戦で相手のエース、ジュニーニョ・パウリスタを完封して脚光を浴び、同年、日本代表に初招集された。
彼は元々左サイドバックだったがプロ生活を続ける中で守備の専門家としての地位を確立していったため、従来の本職で起用されることはわずかであった。
中田浩二
日本代表:57試合2得点(2000-2007)
鹿島と日本代表の黄金期に活躍したMF/DF。マルセイユやバーゼルといった欧州の名門でもプレーした。
本職はボランチだがトルシエ時代は主に左サイドのストッパーを、晩年はセンターバックなどを任された使い勝手の良い選手で、左サイドバックで起用されることもあった。
ただスピードや活力を特徴とする選手ではなく、適正値があったかは微妙なところ。日本代表では57キャップを記録しているものの、左サイドバックで継続的に起用されることはなかった。
三都主アレサンドロ
日本代表:82試合7得点(2002-2006)
16歳の時にブラジルからサッカー留学生として来日し、帰化後に日本代表として活躍した三都主。
1999年のJリーグで最優秀選手に輝いた当時は左サイドのアタッカーだったが、ブラジルはあのレオナルドがそうであったように左利きの攻撃的MFをDFとして起用する文化があり、ジーコ体制でコンバートされて左サイドバックとなった。
当初は危なっかしいプレーに誰もがヒヤヒヤしたが、少しずつ順応し4年間レギュラーを務め上げる。今日において、「左利きの左サイドバック」という括りでは彼が最も成功した選手といえるだろう。