中島翔哉の未来は?日本五輪代表の「10番」を振り返る

2008年の北京五輪で10番を背負った梶山陽平(アルビレックス新潟)が現役引退を発表した。

そこで今回は、28年ぶりに五輪出場を果たした1996年アトランタ大会以来、6大会で日本代表の「10番」を背負った選手たちを振り返ってみよう。

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1996年アトランタ五輪 遠藤彰弘

遠藤彰弘

アトランタ五輪は前園真聖、中田英寿の二枚看板が話題となったが、「10番」を与えられたのは鹿児島実業時代から「遠藤三兄弟」の次男(遠藤保仁は実弟)として知られた遠藤だった。

大会ではグループ初戦でブラジル代表を下し“マイアミの奇跡”と讃えられたもののグループステージで敗退することに。五輪サッカー史上初めて、2勝しながら突破を逃すチームとなってしまった。

遠藤は2005年まで横浜F・マリノスに所属し、その後はヴィッセル神戸へ移って2007年まで現役でプレー。2001年に日本代表候補に選ばれたが、A代表としての出場はなかった。

2000年シドニー五輪 中村俊輔

中村俊輔

中田英寿を筆頭に高原直泰、稲本潤一ら大器が揃い、“史上最強”との呼び声も高かったシドニー五輪。“黄金世代”とも呼ばれたそのチームで「10番」を勝ち取ったのは中村だった。

日本は前評判通りの快進撃で南アフリカ、ブラジル、スロバキアという難敵が揃ったグループを突破。準々決勝でランドン・ドノヴァンらを擁する伏兵アメリカに惜敗したものの、2年後に自国開催するワールドカップとそれ以降の未来に期待を抱かせるのには十分なベスト8であった。

中村はその後、2000年のアジアカップで日本代表メンバー入りを果たしたが、2002年ワールドカップは当時のフィリップ・トルシエ監督の非情な決断により最終選考で落選。ただそれをバネにセルティックで英雄的存在となり、2006、2010年と二度ワールドカップに出場した。

40歳となった現在もJ1のジュビロ磐田に所属し、若手のお手本となるようなプレーをし続けている。

2004年アテネ五輪 松井大輔

松井大輔

五輪発祥の地ギリシャに五輪が帰ってくる――そんな記念すべき大会で「10番」を着用したのが松井大輔である。当時所属していた京都でも10番を付け、既にA代表デビューを飾っていた。

ただ大会ではパラグアイ、イタリアに1点差で負け、ガーナ戦で勝利したもののグループリーグ敗退。山本昌邦監督の「人間力」というキャッチフレーズが独り歩きする格好で批判の的になってしまった。

松井はその後フランスで『ル・マンの太陽』とも呼ばれるなど欧州で長く活躍。日本代表には2006年のドイツ・ワールドカップこそ怪我もあり落選したが、2010年南アフリカ大会では右サイドのレギュラーとしてベスト16入りに貢献している。

2008年北京五輪 梶山陽平

梶山陽平

今回、引退を発表した梶山は、2008年北京五輪の「10番」だった。

この大会の日本はアメリカ、オランダ、ナイジェリアにいずれも1点差ゲームで敗れグループ3戦全敗。失望以外の何物でもなかった。

しかしその屈辱を糧に本田圭祐、長友佑都、香川真司、岡崎慎司、内田篤人、吉田麻也らは海外で実力を磨き、2010年ワールドカップ以降の日本代表を支えていくことになる。

梶山もまた、彼らに続くように一時ギリシャの名門パナシナイコスでプレーしているが、成功とはならず。Jリーグでは確固たる地位を築いたものの、結局A代表には選出されることなく現役を退くこととなった。

恩師である原博実氏はこの報を受け、自身のTwitterに「陽平、お疲れさま おれは陽平が好きだった」とかつての教え子の労をねぎらった。

2012年ロンドン五輪 東慶悟

東慶悟

近年で最も成功した五輪チームの「10番」が東慶悟であろう。

これまでの10番に比べると地味さは否めなかったが、チームのために犠牲になれる東をトップ下に配し、1トップに置いた永井謙佑の爆発的なスピードに賭けるというシステムがはまった。初戦で優勝候補スペインを下すと、3位決定戦で韓国に敗れメダルこそ逃したものの、賞賛に値するベスト4という結果を残している。

東は現在もJリーグで活躍しているが、A代表には2013年に招集されたのみで出場経験はない。FC東京ではチームが攻撃的MFが豊富なこともあってボランチやフォワードなどでもプレーをしている。

2016年リオ五輪 中島翔哉

中島翔哉

直近のリオ五輪で「10番」を付けたのは、ただいまA代表で売り出し中の中島だ。

東京ヴェルディの育成組織で育ち、早くから大きな期待を集めた中島だが、ヴェルディ、そして電撃移籍したFC東京でもほとんど出番がなかった彼を代表チームの中心に据えることに対しては批判的な声も多かった。

ただ、2016年のAFC U-23選手権で日本を五輪出場に導き最優秀選手に輝くと、本大会に「10番」を付けて出場。結果は残念ながらグループ敗退に終わったものの、その後の活躍は説明するまでもないだろう。

彼もまた、先輩たちと同様に「五輪直後のワールドカップに出場する」ことは叶わなかったが、現在では欧州のビッグクラブが獲得を狙うほどの存在となっている。

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