「長崎のナイチンゲール」 久村キヨさん逝く 患者、後進に寄り添い続け

原爆病院看護部長を26年 戦時中に比で救護体験も

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 戦時中にフィリピンで負傷者救護に尽くし、日赤長崎原爆病院の看護部長を26年間務めた久村キヨさん=長崎市古町=が10月21日、老衰のため95歳で死去した。功績ある世界の看護師に与えられる「フローレンス・ナイチンゲール記章」を1995年、県内で初めて受章。本県看護界の“母”として患者や後進に寄り添い続けた。
 「一体何を食していたか記憶にない。体力は衰え、行軍の時は大腿(だいたい)部の皮をつまみあげ一歩一歩進んだ」。太平洋戦争中の激戦地、フィリピンでの体験を県看護協会の50周年記念誌(99年発刊)に、久村さんはこう寄稿している。
 44年5月、日赤から派遣され、首都マニラの陸軍病院に勤務。赤痢など伝染病患者の看護に当たっていたが、連合軍の侵攻で戦況は悪化の一途をたどった。安全な場所を求めて移ったフィリピン・バギオの陸軍病院分院も連日の空襲を受けた。「昼は防空壕(ごう)、夜は病室と移動の繰り返し」。食料は一日1~2食の粥(かゆ)だけだった。
 バギオも包囲され、5カ月の逃避行が始まる。芋の茎やバナナの木などで命をつなぎながら夜の山道をひたすら歩いた。一緒に逃げた軽症患者の多くが餓死、救護班92人のうち29人が命を落とした。終戦後、マニラの収容所に入れられたが「1カ月遅れていたら餓死の運命をたどった」と述懐している。
 久村さんは、それでもなお看護の道を生きる。
 46年に帰国後、国立長崎病院などで被爆者救護に尽力した。日赤長崎原爆病院には58年5月の開院時から勤め翌年1月、2代目の看護部長に就任。35歳だった。管理職となったが、自らの仕事の合間を見つけては病室を訪ね、重症患者に積極的に声を掛けたという。
 久村さんの功績は尽きない。看護師とケースワーカーの連携体制を強化させて被爆者の社会復帰をサポート。患者第一の看護を実現するため、勉強会による人材育成や託児所導入などの職場環境改善に注力した。看護副部長として22年間ともに働いた米倉百合子さん(94)は「みんなの相談役。後輩を温かく見守ってくれた」と振り返る。
 85年に退職した後、日赤県支部の看護師OGでつくる「看護奉仕団」を結成。災害現場での健康診断など、現役の医療従事者をサポートした。戦地での殉職者の慰霊碑建立にも奔走。99年の碑の除幕式で「いまなお戦争の記憶が生々しく残り、二度と繰り返してはならない」と訴えた。
 60年以上の付き合いがあった県看護協会名誉会長の山口ミユキさん(90)は「自分に厳しく人に優しい性格で、『仁と愛とに富む婦人』とする赤十字の心を貫いた。看護界の輝きを失った」と故人をしのんだ。

長崎県看護界の発展に尽くし、フローレンス・ナイチンゲール記章を受章した久村さん。60歳前後の写真とみられる=長崎市茂里町の日赤長崎原爆病院(遺族提供)