【平成の長崎】池島炭鉱閉山 九州最後のヤマ消える 平成13(2001)年

 「ここまで衰退するとは思わなかった。地域と会社が10年、20年先のことをもっと話し合っておくべきだった」
 九州最後の炭鉱として「ヤマの灯」を守り続けていた池島炭鉱(長崎市池島町)が2001(平成13)年11月29日に閉山してから、まもなく17年。島の栄枯盛衰を見てきた外海地区連合自治会池島支部長の近藤秀美さん(68)が悔やむ。
 炭鉱は最盛期の1952年に長崎県内で117鉱が稼働していたが、「石炭から石油へ」のエネルギー革命の中で次々と閉山していった。池島炭鉱は西彼杵半島の西約7キロの離島を松島炭鉱(福岡市)が開発し、59年に営業出炭を開始。長崎市高島の高島炭鉱が86年に閉山した後は県内唯一の炭鉱として、平成に入っても踏みとどまっていた。
 しかし、安価な海外炭との価格差は開くばかり。国は国内炭鉱の保護政策をやめることを決めた。池島炭鉱は従業員の給与を25%カットして存続を模索したが、2000年2月の坑内火災で優良な採炭現場を失い、操業継続が困難になった。
 松島炭鉱は従業員629人を全員解雇。下請けを含む関連離職者は1216人に及んだ。当時は県内の有効求人倍率が0・4倍台という非常に厳しい雇用情勢。下請け企業の事務長を務めていた近藤さんは池島で人材派遣会社を設立し、行き場がない人たちを受け入れた。
 解雇された炭鉱従業員には炭鉱離職者求職手帳などが発給され、2~3年間にわたり雇用保険と就職促進手当が支給される支援措置があった。だが、手帳の失効までに再就職できた離職者は57%の671人にとどまった。近藤さんは「当時は本当に仕事がなかった。手帳失効後は生活保護に頼らざるを得ない人たちも出た」と振り返る。
 松島炭鉱の親会社、三井松島産業(福岡市)は07年、金属リサイクルの「池島アーバンマイン」を設立するも不振で12年に池島での事業を停止。炭鉱最盛期に7800人を数え、閉山時に2700人だった島の人口は、今年10月には135人になった。
 池島は今、炭鉱の歴史を売りにした観光事業に活路を見いだそうとしている。池島にある長崎市の炭鉱体験施設には昨年度、約4200人が訪れたが、採算ラインの7千人には届かなかった。元炭鉱従業員の尾崎政治施設長(57)は「残っている者みんなで力を合わせて頑張っていきたい」と話す。基幹産業を失った島の模索は続く。(平成30年11月16日付長崎新聞より)
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【平成の長崎】は長崎県内の平成30年間を写真で振り返る特別企画です。

最後の採炭のため昇降機に向かう鉱員たち=2001年11月28日午後9時32分、西彼外海町、池島炭鉱第二立て坑

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