名選手なのに…代表チームで一度も出場できなかった6人のスター

現在行われているインターナショナルマッチウィークで、多くの選手達がそれぞれの代表チームに合流し、国際舞台での戦いを経験している。

どこの国であれ、その代表チームに招集されるというのは名誉なことであり、選手としての目標の一つである。

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しかしながら、クラブチームで結果を残しながらも巡り合わせが悪く、結局出場することなく終わってしまった名選手たちも多い。

『Sportskeeda』はそんな「代表チームに縁がなかった6名」を特集している。

カルロ・クディチーニ(イタリア)

全盛期にはプレミアリーグで最高のショットストッパーとして立場を確立したにもかかわらず、彼はイタリア代表でプレーした経験は一度もない。

2002年の親善試合で招集されたことはあるが、当時はジャンルイージ・ブッフォンとフランチェスコ・トルドが1番手、2番手で君臨していた。

クディチーニは2001-02シーズンにはチェルシーでチームのMVPに選ばれ、そのままアブラモヴィッチ体制になってもゴールマウスを守り続けた。

彼は時代の犠牲者だったといえよう。ブッフォンとトルドだけでなく、アンジェロ・ペルッツィもいたため、その壁があまりにも厚かったのだ。

奇しくも彼の父親である名GKファビオ・クディチーニもイタリア代表でのキャップは一つもない。ACミランやローマで活躍した選手であるにもかかわらずだ。

スティーヴ・ブルース(イングランド)

マンチェスター・ユナイテッドのレジェンドであるブルース氏は、センターバックとしてオールド・トラッフォードで309試合に出場した経験を持つ。

イングランドのサッカー界を代表するビッグネームでありながらも、彼は一度もA代表で出場したことはない。パートナーのギャリー・パリスターが22試合に出場した一方でだ。

ルーツを持っているアイルランドで代表チームに入るチャンスを与えられたものの、もしそちらに行っていればイングランドの外国人枠制限に引っかかる恐れがあった。

そのため彼はその機会を断り、B代表での出場1回というキャップ数で現役を終えることになったのだ。

ダリオ・ヒュブナー(イタリア)

1990年代中盤から2000年代初頭にかけて、イタリアでおそらく最もコンスタントにゴールを決めた男。

雄牛のようなプレースタイルと洗練されたゴール感覚、シブいルックスで愛されたヒュブナーは、キャリアで300ゴールを決め、35歳でセリエA得点王に輝いた。

一方、1997年に初めてセリエAに挑戦して以来、一度もイタリア代表からのお呼びはかからなかった。

ロベルト・バッジョやクリスティアン・ヴィエリ、アレッサンドロ・デル・ピエロら伝説的なストライカーと同じ時代を過ごしたという事実があるが、ヒュブナーをアッズーリで見たかったという声は非常に多かった。

ただ、ヒュブナーもおそらく酒とタバコをどこかで辞めていれば、彼らを容易に上回ることができたのではないだろうか…。

パオロ・ディ・カーニオ(イタリア)

プレミアリーグで最も才能を持っていた選手の一人であるディ・カーニオ。イングランドでの7年間ではピッチ上で多くのファンタジーを見せていた。

ただその一方で時に暴力行為に及んだり、ナチス式敬礼で騒動を巻き起こしたりと、様々な問題も引き起こすこともあった。

それに加えてイタリア・セリエAではそれほど成功を収めていなかったからか、アッズーリからの電話を受けることはなかった。

ただ、フランチェスコ・トッティ、クリスティアン・ヴィエリ、フィリッポ・インザーギ、アレッサンドロ・デル・ピエロらとならび、歴史上でも最も偉大なストライカーの一人であることは間違いない。

ミケル・アルテタ(スペイン)

スペインの歴史上でも名選手の一人と言えるアルテタ。知的でテクニカルな彼のプレーは美しいものだったが、それ以上に素晴らしい選手と同じ時代を生きたことが不運だった。

バルセロナのユースで育成され、レアル・ソシエダを経てエヴァートンへと移籍。プレミアリーグで大活躍を見せ、その後アーセナルにステップアップした。

創造性とビジョンに恵まれたアルテタのプレーはまさにバルセロナのエッセンスを体現するものだった。それは引退後、すぐにジョゼップ・グアルディオラがコーチに誘ったことでよく分かる。

しかしスペイン代表の中盤は非常に競争が激しく、招集された2009年にはアルテタが膝の怪我で辞退をしなければならなくなった。

2011年にはイングランドが彼を引き抜こうとしたこともあるが、その基準は満たしておらず、鞍替えは叶わなかった。

ガビ(スペイン)

間違いなく、代表チームから呼ばれたことのない最も偉大な選手はガビであろう。ヨーロッパでベストな守備的MFとして、ディエゴ・シメオネ監督のアトレティコ・マドリーをヨーロッパ屈指のクラブに引き上げた。

ユース出身であるが一度レアル・サラゴサに移籍し、2011年に再びアトレティコ・マドリーへと戻ってきた。それがシメオネ監督のファーストシーズンだった。

そして次年度にはキャプテンも任されることとなり、シメオネイズムを体現する象徴の一人に。勤勉な倫理観を持ち、現場にその哲学を植え付けていった。

決して世界最高のリソースを持たないクラブが、リーガを制覇し、2度のCL決勝に到達し、コパ・デル・レイとヨーロッパリーグを優勝した。それはまさにガビの功績でもある。

ただチャビ、イニエスタ、ダビド・シルバ、セスクらと競い合わなければならなかったという点で、とにかく不運な時代だった。

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