社内で交わす秘密のアイコンタクト。惹かれ合う男女が、上司と部下の関係を越えるまで

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人のものを奪ってはいけない。誰かを傷つけてはいけない。

そんなことは、もちろんわかっている。

しかし惹かれ合ってしまったら、愛してしまったら、もう後戻りなんてできない−。

渋谷のWEBメディアで働く三好明日香(24歳)には、学生時代から続く彼氏・昭人がいた。しかし小さな心の隙に、ある男の存在が入り込む。

ヘッドハンティングでやってきた新しい上司、大谷亮(おおたに・りょう)。

明日香は休日出勤で偶然居合わせた大谷から食事に誘われ、応じてしまう。

近づいていく心

「どうぞ、奥に座って」

並木橋からすぐの『イル フューメ』

大谷が直前に電話を入れてくれ、店を訪れるとカウンターが2席だけ空いていた。

これはデート…ではないのだけれど、長い間、昭人以外の男性と二人きりで食事に行く機会などなかったから、私はどぎまぎする心を必死で隠した。

テーブルにつき、そっと大谷の横顔を伺う。

けれども彼は、いつもどおりの涼しい顔。

…隣にいるのが私だろうが誰だろうが、きっと同じ表情なのだろう。そう思ったら、なぜか小さく胸が痛んだ。

大谷が聞きたいというので、私は会社の人間関係や噂話なんかを色々と話してあげることにした。

沈黙するとどうにも緊張してしまうから、話題が見つかってホッとしたのもある。

私の勤めるWEBメディアは社員100名弱がワンフロアで働いていて、そのほとんどが20代〜30代という若い会社。

それゆえ社内では色恋沙汰も含め、日頃から様々なゴシップが飛び交っているのだ。

「なんか、意外だな」

少し前に起きた、営業部VS企画部の熱血バトルの顛末を笑いながら話していると、大谷がふいに小さく呟いた。

「いや…三好さんって、初対面だとツンとして話しづらいタイプに見えたから。意外と気さくなんだな」

そう言って柔らかく笑う彼の目があまりにも優しくて、私は慌てて瞬きをする。

「そうかな。ツンとして見えますか?」

逆質問をして誤魔化す私に、大谷は正面を向いたまま独り言のように続けた。

「そういう女性の方が、俺は好きだけど」

この刹那、二人の間に一瞬、甘く痺れるような空気が漂った。

それに気がついたのは、きっと私だけじゃないと思う。

心を近づけていく、明日香と大谷。しかし明日香にはまだ“確認できていない事実”があった

「おはよう」

大谷と食事を共にした翌週の朝。

彼の声が背後から聞こえた瞬間に、私の胸は高鳴った。

「おはようございます」

意識して、普通に。他の誰とも変わらない声を出して大谷を見遣る。ちょうど席に座ろうとしていた彼と、目が合った。

そしてその一瞬、大谷は私に小さく、瞳で合図をした。

誰にもわからない程度の、微かなアイコンタクト。私と彼だけの、秘密の会話。

脈打つ心臓と、ともすると緩んでしまう頬を耐えるようにして、私は慌てて正面を向いた。

すると…思いがけず目の前に座る徹とバチっと目が合い、私はとっさに固まってしまう。

−まさか、今の見られてた?

しかし徹は無言のままに目を逸らしたので、私も何もなかったフリで仕事に戻ったのだった。

指輪をしていない=独身とは、限らない

お昼休み、近くのカフェで昼食をとってから少し早めに自席に戻ると、隣の島でお弁当組の女の子たちが何やら盛り上がっていた。

男性陣が出払っている日のランチタイムは、さながら女子校の昼休みのよう。

おそらく恋バナでもしているのだろう。いつもなら「なになに?」と話に混ぜてもらうところだが、私には午後一の会議資料準備がある。

しかし作業にとりかかってすぐ、私はその手を止めずにはいられなかった。

「ねね、大谷さんってちょっと良くない?」

ひときわ華やかな顔立ちで、複数の男と噂がある営業部の女子社員・冴木奈々(さえき・なな)が、大谷の名前を出したのだ。

すると一緒にいた女たちも、興奮気味にわっと声をあげた。

「わかる!なんだろ、色気?」
「34歳だっけ。結婚してるのかな」
「指輪はしてなかった!」
「私もチェックしたそれ。でもそれだけじゃ安心できない(笑)」
「そうだよ。結婚してても指輪してない男なんてゴマンといる。騙されちゃダメ」
「そう思って私、密かにヒアリングしてみたけど掴めなかったわ。Facebookもアカウントしかなくて。連れて来たの社長だから社長は知ってるはずだけど、さすがに聞けないし」
「でもさ、ぜんぜん生活感なくない?独身っぽく見えるけどなぁ」

マシンガンのように繰り広げられる彼女たちの大谷評を、私はひとりハラハラしながら聞いた。

−結婚してるのかな。

そう、それは私もずっと気になっていることだった。

あの夜に、本当は聞こうと思っていたのだ。けれどもきっかけを掴めず、結局最後までその話題を出せずに終わってしまった。

…いや、むしろ、自ら聞くのをやめてしまったという方が正しいかもしれない。

私は多分、わざと聞かなかった。

「してるよ」なんてサラリと言われて、がっかりしたくなかったから。

大谷は独身なのか?確かめないままに走り出した恋は、次第に止められなくなっていく

そもそも私には昭人という、結婚を考えるほどの彼氏がいる。

最近は正直、関係がうまくいっているとは言えないけれど、それでも別れようなどという考えはなかった。

昭人の父親は青山で会計事務所を経営しており、試験にさえ合格すれば、将来的に彼が後を継ぐことは決まっている。

さらに、私はすでに昭人の両親に何度も会っており、彼の母親から「明日香ちゃん、昭人を支えてあげてね」などと、結婚を容認するかのような言葉までかけてもらっていた。

だから大谷が結婚していようがいまいが、私にはそう大きな問題ではない。何より大谷は同じ会社の上司。彼とどうこうなろうなんて、思ってはいなかった。

ただ−。

彼の何気ない仕草にときめいたり、彼のことを知りたいと願う気持ちを止めたくない。暫しの間、楽しんでいたい。

私の彼に対する感情は、そんなちょっとした好奇心だったのだ。

しかし思いがけず、私と大谷は急速に親密になっていった。

といっても、彼に誘われたとか、デートに出かけたとかいう話ではない。ふたりきりで食事に出かけたのは、休日出勤をしたあの夜だけだ。

ただ、徹を含めた3人で頻繁に食事をするようになった。

というのも、私は家に帰ってもひとりで、彼氏の昭人も勉強があるから相手にしてくれない。女友達や会社の同僚と飲みに行くこともたまにはあるが、予定のない日は積極的に会社に残っていた。

好都合(?)なことに会社は裁量労働制で、残業していても何も言われない。

変わり者の徹も境遇は私と同じのようで(彼の場合は彼女もいないらしい)、二人して遅くまで残業をしていると、見かねた上司の大谷がご飯に連れ出してくれるのだった。

ビストロやバーで日付が変わるまで飲んだり、深夜まで仕事が終わらない時には皆でラーメンを食べに行ったり。

大谷と徹もかなりウマが合うようで(と言っても、大谷は誰とでも上手に付き合える男なのだが)、彼らが仕事の話を熱く語ったり、スポーツや映画の趣味について盛り上がるのを聞いているだけで、私はとても楽しかった。

...ちなみに私が知る限り、帰りがどれだけ遅くなっても、大谷は一度も時計や電話を気にする素ぶりを見せない。

そして、自分でも無意識だったが、大谷との距離が近づくにつれ、私は昭人への連絡を疎かにするようになっていた。

仕事を通じ、関係を深めていく大谷と明日香。上司と部下。“適切な”関係のはずだったが…

年が変わると、私たちはいよいよ会社説明会の開催に向けて忙しくなった。

何せ人の足りない職場なので、メインで動けるメンバーは大谷と徹、そして私だけ。実際の採用面接などは他部署の選抜メンバーを使えることになってはいるが、説明会の運営は基本的に私たちですべて回さねばならない。

企業紹介のビデオを制作したり、20代の若手社員がいかに活躍できる職場かをアピールするべく、先輩社員が登場する冊子なんかも作った。

初めての新卒採用であるから、やるべきことは次から次へとある。

毎日遅くまで会社に残り、どうすればもっと応募が来るか、どんなことを話せば入社したいと思ってもらえるか。ああでもない、こうでもないと議論を重ねる。

毎日のように深夜帰宅が続いたが不思議と全く苦ではなく、私はそんな自分に自分で驚いていた。

というのも、私はもともと、仕事なんて好きではなかったのだ。

大学を卒業し新卒で入社した大手不動産会社も、入社動機なんてないも同然だった。ただなんとなく内定をもらえたから。それだけだ。

先に話したように、私は彼氏の昭人が試験に合格しさえすればすぐにでも結婚し、専業主婦になって彼を支えたいと思っていた。

今から思えば、そんな私の中途半端さが滲み出ていたのだろうか。

同じ部署のお局的存在の先輩とどうしても相性が合わず、次第にストレスから、出社しようとするとお腹に激痛が走るようになってしまったのだ。

そうして私はたった1年半で前職を辞めたのだが、しかし肝心の昭人がまだ試験に受かっていない。

勉強中の彼氏と結婚というわけにもいかず、とにかく働かなければと転職活動をし、そうして現在のWEBメディアに入社した、という経緯である。

つまりこの会社に入ったのも、決してポジティブな動機ではなかった。

しかし今は違う。

大谷が来てから、私は仕事を楽しいと思うようになった。自ら提案した企画が形になったり、皆で一つのことをやりとげる達成感を知った。

彼はとても指示が的確で、二言がない。皆で話し合って決めたことは必ず社長を説得し、通してくれる。小さな成長も見逃さず褒めてくれるし、私が困っているとさりげなく手を差し伸べてもくれる。

仕事が楽しいと、こんなにも毎日が輝くのだということを、私は彼に教わった気がしていた。

上司と部下。二人は“適切な”関係のはず、だった。

忙しく働いていると目まぐるしく時は過ぎ、季節はあっという間に初夏を迎えていた。

「次は来月、大阪か。準備もあるし前入りした方がいいな」

東京での会社説明会を終えた後の反省会で、大谷が私と徹を交互に見遣る。

社長の方針で関西でも新卒採用を行うことになったため、私たちは3人で大阪出張に出かけることが決まっていた。

前入りをするとなると、二泊三日。皆で、同じホテルに泊まる。

−昭人にも、やっぱり言っておいた方がいいかな。

仕事で行くのであり、別に何もやましいことなどない。しかしなんとなく、まだ伝えられていなかった。

尊敬する上司と、部下。

密かな恋心はあっても、大谷と私はずっと“適切な”関係を保っていた。そしてそれは、これから先も変わらない…はずだった。

ほんの些細なきっかけで、バランスが崩れてしまうまでは。

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二泊三日の大阪出張。そこで起きた“バランスを崩す”出来事とは?