ライン川紀行~“父なるライン”を行く~ 自然と歴史・文化の交響詩

ローレライ付近(激流が走る)

旅へのいざない

5年前(2013年)のことである。私は、8月末から9月初めにかけてライン川を1週間かけて下った。当時の紀行文を一部リライトした上で再録することをお許し願いたい。私には忘れがたい海外視察の<豊かな旅>だったからである。

夏から秋に季節が移り変わる時期であり、冷たい雨が横なぐりに降りつけたかと思うと、翌日は夏のなごりの暑い日となるといった気候変動の激しい時節であった。ヨーロッパを代表するこの大河をぜひとも訪ねてみたいと思った理由は、もとより国際河川が流域に刻んだ歴史・文化とその現実を知りたかったからではあるが、「河川と環境」「河川と景観」「河川と癒し」との今日テーマを探ってみたいと考えたからでもあった。(ヨーロッパの歴史的知識がないと、ライン川の魅力は半減する)。今日のツーリズム(観光政策、観光産業)のあり方を大河川の整備事業との兼ね合いで探ってみたいとも思った。内外からの観光客を引き付ける「荘厳さ」「華麗さ」も大河の魅力のひとつである。そして何よりも、「ローレライの歌」(ハインリッヒ・ハイネ作詞、フレドリッヒ・ジルヒャー作曲)が詩・メロディともに好きだったからである。

 ♪なじかは知らねど、心侘びて、
  昔の伝えは、そぞろ身にしむ
  さびしく暮れゆく、ラインの流れ
  入日に山々、赤く映ゆる♪(以下略)
近藤朔風の訳詩は独創的であり名訳である。
                ◇
ライン川は、国際河川だけにドイツ語ではDer Rhein、英語ではThe Rhine、フランス語ではLe Rhinと表記される。スイス・アルプスに源を発し、リヒテンシュタイン、オーストリア、ドイツ、フランスを経て、オランダで北海に注ぐ。長さは約1320kmで、日本最長の信濃川の3.6倍である。流域面積は約22万4000km2もあり、日本の本州の面積にほぼ等しい。ヨーロッパ大陸では、ドナウ川に次いで二番目に大きな川である。流域の大半を占めるドイツの国民は、ライン河に愛着を込めて「父なるライン」と呼ぶ。一方、ドナウ河に対しては「母なるドナウ」と言う。Rhein は古代先住民族のケルト語の動詞「レーン」(Rhen、奔流する)からきているとされ、英語のrun 、ドイツ語のrennen (いずれも「走る」)と語源を同じくする。流域にはクリストフォロス聖人伝説が語り継がれている。

私は、まずオランダに入り、河口部のロッテルダムとその国際港(ユーロポート)を視察した後、水源地であるスイスに空路飛んで、最上流部から「ライン紀行」を開始することにした。ライン川の流域は通常、「アルプス・ライン」「高ライン」、「上ライン」「中ライン」「下ライン」の5流域に区分される。ボーデン湖に流入するまでの「アルプス・ライン」は今回敬遠して、「高ライン」から探訪を始めた。今回は「高ライン」は通過して、「上ライン」から紀行文を始める。

ライン川の歴史を伝える古城

「上ライン」:学術の都バーゼルと大運河

ボーデン湖に臨む歴史の町コンスタンツ(Konstanz)からに西に向って流れ下ってきたライン河は、バーゼルでほぼ直角に流れを変えて北(北海)に向う。今から100万年以上も前の新生代第三紀の終わり頃までは、ライン河はそのまま西に向って流れ続け、ローヌ川と合流して地中海に注いでいた。その後、現在のフランス・アルザス地方とドイツ・シュヴァルツヴァルト(黒い森)山地との間に巨大な陥没地帯(独仏国境地帯)が生じて、流れはその谷間に沿って北に転じることになった。

バーゼルは、スイスでチューリッヒ(Zurich)に次いで2番目に大きな都会であり、同時に国際河川ライン川の特徴をよく示した港町でもある。化学・薬品工業でよく知られる。ここから北海とライン川の接点にあるロッテルダム(ユーロポート)まで約800kmの間を、2000t級の大型船舶で航行できる。バーゼルはその昔から山国スイスが持っている唯一の海への出口だ。ライン河の舟運がスイス経済に対して重要不可欠な役割を果たしている。ライン河畔に華麗な大聖堂(ミュンスター)がそびえる。

バーゼルは16世紀に人文主義の一大中心地となり、古代研究が盛んになった。その拠点がヨーロッパで最古とされるバーゼル大学であり、代表的学者がオランダ生れのエラスムスである。ライン河が大アルザス運河と分かれる地点は、スイス・フランス・ドイツの国境に接した内陸の港湾で、巨大な輸送船が発着を繰返している。ライン川博物館を訪ねた。中世から現代までの輸送船のモデルが数多く展示され、また洪水や河川改修の古文書類・文献も残されている。「戦前までは船員は高給が保証された憧れの職業だった」と館長は説明する。

ライン川はその昔から蛇行を繰り返し、網の目状に分流するので、沿岸にしばしば大洪水をもたらした。人々はライン河の岸辺を離れて、水害の心配の少ない高台を選んで城下町や村落を形成した。ライン川が乱流を繰返し続けては土地を有効に活用できない上に船舶の航行にも不便である。19世紀になってドイツにより約70年がかりで一大治水工事が進められた。蛇行、分流していたライン川を一本にまとめて直線河道にし、強固な堤防を築いた。これで大洪水の心配がほとんどなくなり、氾濫原や河跡湖として放置されていた土地を農業用に活用できるようになり、船の航行も便利になって万事がうまく行ったかに見えた。近代河川工学の勝利かと思えた。

だが直線河道となったライン川は流れが激しくなり、川床が削られて平均水位が5~7mも低くなった。それに伴って地下水位が下がってしまった。流域平野では乾燥が目立って増え、林野は枯れて、農作物や牧草は育ちが極端に悪くなった。一大治水事業によって農耕地の面積は増えたが、農業生産高は逆に減ってしまった。河床が深くえぐられて土砂の中から岩礁が水面から頭を出し、減水期には船の航行が危ぶまれるまでになった。

これとは別に、1840年代からバーゼルとアルザス地方の古都ストラスブール(Strasbourg)の120kmの区間に本流に並行して運河を開削する計画案が台頭した。この区間は、プロイセン(現ドイツ)とフランスの国境になっており利害調整が極めて難しく、計画案の実現は無理とされた。ところが1871年、フランスが普仏戦争で敗北を喫し、アルザス地方がプロイセンに割譲されてライン河の両岸がともにプロイセン領地になったため、並行運河が実現する運びとなった。これが現在の大アルザス運河(Grand Canal d’Alsace)の前身である。第二次世界大戦以降、フランス・ドイツの協調時代に入り、大運河は根本的な手直しが行われた。その大原則は、ライン河の川水を大運河から再度本流に戻すことにあった。

バーゼルと、ストラスブールより下流にあるイッフェーハイムとの間に、7箇所にわたってライン河の本流に閘門(ロックゲート)が建設された。船は閘門によって水位がかさ上げされたライン河の本流を航行する。自然河川の運河化という手法が取り入れられた。1500t級の大型船舶が航行可能になった。この間には10カ所で水力発電所が設けられ、合計で年間に約83億kWhとの豊富な電力が得られるようになった。一方、大運河は年間約3万隻の船舶が通っている。ストラスブールで、古都のシンボルともいえる大聖堂(カテドラル)をはじめ中世の町を再現したプチ・フランス(小フランス)や運河それに運河に架かる屋根付橋などを見てまわった。

流域に広がるブドウ畑(高級ワインの産地)

「中ライン」:ロマンチック・ライン川

古くから温泉の湧く保養地として知られるヴィスバーデン(Wiesbaden)に一泊した後、中ライン・船下りの出発点リューデスハイム(Rudesheim)に向う。前夜の雨も上がって快晴である。同町は古くから回船(舟運)とワイン取引で栄えた港町である。対岸が中世ドイツ文化の中核で一大工業都市マインツ(Mainz)である。15世紀に活版印刷に成功したグーテンベルクの博物館がある。搭乗券を販売している女性は「ここの船下りは日本人に最も人気のあるところです。ローレライは右舷側ですよ」と不思議なイントネーションの日本語で話しかける。日本人観光客が教えたに違いない。「今日は、金曜日のシニアー・デイだからお年寄りの乗客が多いのです」とのことであった。「シニアー・デイ」にはお年寄り料金が格安になるようである。日仏独語で書かれたパンフレットやライン河関連図書を買い込んで乗船する。午前9時5分、観光船は岸を離れる。ここでも乗客の大半がドイツ人のお年寄りたちだ。よくしゃべり、よく食う。ビールを飲む。元気一杯である。

中ラインは、「ロマンテッシヤー・ライン川」(ロマンチックなライン川)と愛称され、4時間あまりの船旅はライン下りのハイライトである。両岸から高台が迫ってきて、山間の渓谷を行くような観を呈し、多くの古城が両岸にそびえる。伝説に名高いローレライの岩場があり、中世の町を再現したような古風の美しい町や村が点在し、斜面には一面にブドウ畑が広がる。ドイツワインの産地である。かつて通行税を取り立てた館も残っている。猫城、ネズミ塔、シュターレック城、プファルツ城、シェーンブルク城などの古城を岸辺の高台に眺めながら、船はお目当てのローレライ(Lorelei)に向かう。

川幅が極端に狭くなり、ほとんど垂直に近い絶壁が川面より132mも高いところまでそそり立っている。急流の難所で、かつては岩の暗礁群が水中に潜んでいて、船乗りたちは、川岸にそびえるローレライの岸壁の形状と流れの有様から暗礁群の位置を推測し必至の思いで操船した。ローレライの岸壁は、不気味なこだまが響くため船乗りたちは魔性のものが死を招いて呼びかけてくると恐れた。ハイネの詩、ジルヒャーの作曲で知られる「ローレライ」のもとになった伝説である。船内に「ローレライ」の曲が流れる。乗客のお年寄が声を張り上げてコーラスを始めるものと思ったが、口ずさむ程度で合唱は始まらない。私の隣でデッキに立っていたドイツ人男性老人(元高校教師)は「ハイネがユダヤ人だから進んで歌おうとしないのでしょう」と小声で語り顔をゆがめる。そして「船上ではドイツワインを楽しむべきですよ」と言ってお勧めの銘柄を教えてくれた。

ロマンチック・ラインの終着点で2000年の歴史を持つコブレンツ(Koblenz)で下船した。キャビンボーイによるとこの日の乗客数は定員2000人に対して約600人で、その大半が旧東ドイツから来た御年寄の観光客であり、日本人の客は数人であるとのことだった。秋の観光シーズンに入る9月中旬以降には乗客数は増えるはずであると語っていたが、表情は今ひとつさえなかった。鉄道に乗り換えてボンに向かい宿泊した。(ライン下りの船はコブレンツを経て北に向って進む)。

「下ライン」:古都のボン・ケルンそれにルール川

ライン川べりに発達したボン(Bonn)の歴史も古い。紀元前1世紀にローマ軍が城塞を築いてCastra Bonnensia(ボンの要塞)と名付けたことに地名は由来する。ボンの大聖堂は西ローマ帝国末期に建造されたもので改装中であった。早朝、ライン河畔を散歩する。両岸に広い公園が整備されていて小鳥が飛び交い気分は爽快である。河砂や鉄鉱石を満載した輸送船が行き交う。市内中心部には名門ボン大学や作曲家ベートーベンの生家などがある。ボン大学付属図書館を訪ね、拙書『工学博士 廣井勇の生涯』の英訳本を寄贈した。「ドイツに留学した日本人学者の英訳伝記が著者から寄贈されるのは初めてです」と女性司書は喜んでくれた。

ドイツの名だたるアウトバーン(Autobahn、ヒトラー政権下に造られた高速自動車専用道路)を走ってみたくなり、タクシー運転手に依頼した。「ケルン駅までを30分以内で走ってみせる」とギリシャから出稼ぎに来ているという中年運転手は豪語する。この国では高速道路に制限速度がない。運転手はアウトバーンに入るやアクセルを踏み込み、最高時速180km!で車をぶっ飛ばした。ライン河に近いケルン駅前まで20分で着いてしまった(運転手によるとフランスでは「高速道路に制限速度などという馬鹿なルールがあって時速90kmまでだ」と吐き捨てるように言う)。

ケルンのシンボルである天空を突き抜けるような大聖堂を見学した後、列車に乗り込んでドイツ西部の工業都市エッセン(Essen)に向かった。ライン河支流のルール河畔に広がるエッセンを是非訪ねたいと思ったのは他でもない。ヨーロッパ最大の工業地帯とされ、ドイツ最大の炭田・ルール炭田の中核都市として栄えたエッセンとその周辺で、ルール河とそれに連なる運河の水質問題を調べたかったからであった。

1世紀以上もの間、ドイツ産業を支えたツケの工業廃液にまみれたルール川の水質管理の実態を知ろうとしたのである。ルール川には河川敷を利用して遊水地が各地に掘られている。水泳用プールを思わせるが、コンクリートで固めていない。川水は多くの遊水地を下るとダム湖(ボールデニー湖)に流れ込む。遊水地とダム湖は水道用水確保と水害防御のために開削されたものであるが、何よりもかつての水質汚濁から脱却するための装置として造られたもので、ダム湖は今日では貴重な水辺の空間として市民に開放されている。だが遊水地は立ち入り禁止である。河川管理組合の話では「水質管理には万全を期しており、過去のような心配はない」とのことであった。さて、本稿が読者諸氏への<旅へのいざない>になったであろうか。 

最後に「ライン河の文化史―ドイツの父なる河」(小塩節、講談社)をお勧めしたい。 

(つづく)

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