広島訪問、イラク医師が見たものは? よみがえる記憶、共感する悲しみ

原爆ドームの前を歩くマハディ・サレハさん 右は平和記念公園の原爆慰霊碑を眺めるマハディ・サレハさん=それぞれ10月8日、広島市  

 共同通信バグダッド支局の現地通信員で、医師のマハディ・サレハさん(52)が10月、初来日し被爆地広島を訪問した。1980年代のイラン・イラク戦争や91年の湾岸戦争、2003年に始まったイラク戦争、国際テロ組織アルカイダや近年の過激派組織「イスラム国」(IS)の台頭…。戦乱を生き抜いたイラク人は「平和のためのヒロシマ通訳者グループ」代表で、被爆者の小倉桂子さん(81)とも交流、2人は時間と空間を超え体験し合った戦争被害を語り合い、通底する悲しみを共有した。被爆者の話から自身の記憶がよみがえったと話すマハディさん。広島で感じた共感とは? 帰国後、47NEWS編集部に英文手記を寄せた。(翻訳、構成 共同通信=特別報道室・平野雄吾)

広島平和記念資料館で原爆投下時刻の午前8時15分で止まった腕時計を眺めるマハディ・サレハさん=10月8日、広島市

 第2次大戦から70年以上が経過しているとは言え、広島の市街地は完全に復興しており、原爆で破壊された街の面影もなく素直に驚いた。その中で、唯一原爆ドームが当時の悲惨な状況を物語り、戦争が罪のない一般市民に何をもたらすのか、それを世界に伝える遺産として残っている。破壊された建物を戦争遺構として残した広島市民や行政の英断に感銘を覚えた。イラクでも義務教育で原爆について学習するが、被害の実態を目にすることで核爆弾の恐ろしさを実感することができる。

 私は幸運にも被爆者の1人、小倉桂子さんの英語による被爆証言を聞き、さらに彼女と個別に面会する機会を持った。8歳のとき、爆心地から2・4キロ離れた自宅近くで被爆したという小倉さん。「閃光とともに地面に打ち付けられ、世界は真っ白に」「目を開けると暗闇が広がっていた」。破壊された家、川を流れる遺体。負傷者に求められ水を飲ませたら目の前で死亡した―。過酷な被爆体験に引き込まれ、1945年8月15日の広島を想像した。

 証言はまた、私自身の戦争の記憶をよみがえらせた。ある被爆者の話として紹介された遺体を巡る家族の思いである。小倉さんは言った。「街の至る所で犠牲者の火葬が行われていた。ある男性が積み上がった無数の遺体から自分の娘を見つけて叫んだ。『やめろ、やめてくれ。私の娘だ』。彼は遺体を見つけ幸せそうだった。周囲の人も声をかけた。『よかったね』」

広島平和記念資料館で被爆者の小倉桂子さん(右)と懇談するマハディ・サレハさん=10月9日、広島市

 2006年、バグダッド西部ガザリヤ地区。国際テロ組織アルカイダ系武装組織が私の妹(42)の家を急襲した。家にいたのは夫=当時(33)、妹、3~10歳の子ども3人の計5人。武装組織は夫を拉致した。妹は警察に夫の行方を捜すように懇願し続けたが、当時この地区では警察さえも武装組織に対抗できなかった。妹はずっと泣き続けた。事態が動いたのは1週間後。軍が投入され、地区を捜査、家族が待つ警察署に夫の遺体が届けられた。軍によれば、路上に無数の遺体が放置されており、ピックアップトラック3~4台で回収したそうだ。解剖の結果、ひざまずいた状態で頭を打ち抜かれていたことが分かった。遺体の眉間には穴が空いていた。私たちは拉致された直後から夫は殺されたと分かってはいたが、遺体が家族の元に戻ってきたことで妹の表情が和らぎ、精神が落ち着いていったのを覚えている。

 小倉さんの話に戻る。彼女はこう続けた。「被爆者はまず、まだ生きていることを願って家族を捜す。次に遺体であっても見つけたいと考える。そして、死亡した家族の最期を知っている人に会いたい。最後に、死んだ家族のどんな情報でも欲しいと願う」。それは、イラク戦争後の混乱の中、妹の夫を失う過程で私の家族が体験した感情と同じものだった。

原爆ドーム周辺を散策するマハディ・サレハさん=10月9日、広島市

 戦争が好きな市民はいないが、いつも政治指導者の決断で市民は戦争に巻き込まれる。だが、小倉さんは戦争に巻き込んだ指導者のことや原爆を投下した米国について非難することはなかった。彼女のメッセージはシンプルで、力強い。あの日広島で何が起きたのか、世界は忘れてはいけない。そして同じ悲劇を繰り返さないように努力しなければならない。彼女のような被爆者がいて、証言する努力を続けている広島はイラク復興のモデルになると確信している。

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