信長の「上昇志向」居城跡の〝ある発見〟 司馬遼太郎氏が書こうとした小牧山城

左はJR岐阜駅前広場の織田信長の銅像=2009年9月、岐阜市 右は織田信長が築いた小牧山城の復元想像図(愛知県小牧市教委提供)=2013年 

 作家司馬遼太郎さんが亡くなったのは1996年2月12日、72歳だった。直前まで、「街道をゆく」執筆のため愛知県内を熱心に取材して回っていたと、編集者が、未完のシリーズ最終巻「濃尾参州記」のあとがきに綴っている。

 「小牧山を書くのが楽しみです」。打ち合わせの際、司馬さんはそう語っていたという。桶狭間の戦いで今川義元を討ち取り、信長が隣国美濃(岐阜県南部)を攻略するため拠点を定めた小牧山城(愛知県小牧市)は、羽柴秀吉と徳川家康が天下取りを巡って対峙した「小牧長久手の戦い」でも登場する。司馬さんは作品としてこの城のことをシリーズで書けないまま世を去ったが、最近発掘調査によって、小牧山城の全貌が分かりつつある。(共同通信=柴田友明)

 信長の居城

 今年11月中旬、小牧山の山頂の天守(主郭)近くに織田信長の屋敷とみられる建物跡、礎石が見つかったことが明らかになった。愛知県小牧市教委が発表した。本丸近くに城主の居宅があるのは近世城郭の特徴で、この城が近世城郭のルーツとなったことを裏付ける発見とされる。

 小牧山城は、駿河・遠江の大名今川義元を破った信長が美濃攻めの拠点とした。1563年に築き、約4年間居城とした。市教委によると今年10月以降、天守南側斜面の下の平たん地で、建物の基礎となる礎石が8個見つかった。約1・5~1・8メートル間隔でほぼ1列に並び、屋敷2棟の柱を支えていたとみられる。その周囲からは格式の高い建物に使われる玉石を敷き詰めた遺構や、山麓では見つかっていない茶器や青磁器など高級品のかけらも出土。市教委は「信長の屋敷」と判断した。

小牧山城跡周辺の地図

 「頂上志向」

 これまで美濃国を攻略した信長が岐阜城の天守近くに生活空間を設置したことが初めてとされていたが、その前の段階、小牧山城でもそうしていたことになる。小牧市教委は「信長が駆け出しの時から“頂上志向”だったことがうかがわれる」としている。
 

 戦国時代の山城では城主は山麓に暮らすのが一般的で、信長が1567年に移った岐阜城が山頂付近に居宅を構えた始まりとされていた。専門家も「信長の山城における居住空間の構築が、岐阜城から小牧山城にさかのぼることが明らかになった」と指摘している。

 戦国時代の日本を訪れた宣教師ルイス・フロイスは岐阜城で山頂の天守に信長が暮らしていたことを記しているとされる。

 「天下布武」を世に示し、天下統一を目指した原型が小牧山城の発掘から分かりつつある。今も話題になる信長の足跡、今後の調査が楽しみだ。

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