真理はわれらを自由にする【大分県】

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開設間もない頃の校舎の全景(1947年ごろ、別府大学提供)
現在の別府大学を創立した佐藤義詮の名を冠した記念館を案内する飯沼賢司文学部長
在りし日の佐藤義詮  (1946年、別府大学提供)

 母体である豊州女学校時代から数えて、今年で110周年を迎えた別府大学。その中核といえるのが文学、史学、哲学、芸術などを研究する「文学部」だ。戦後の新制大学の黎明期(れいめいき)、文学部のみで発足した4年制大学は、地方都市にあって極めて珍しい存在だった。芸術や読書、文化に親しむ秋の終わりに、県内唯一の「文学部」の物語をひもといた。

 北石垣の別府大学キャンパス。学生たちが行き交うその中央部に、「佐藤義詮(よしあき)記念館」はある。2017年1月に完成した真新しい建物だ。

 2階の展示室を訪ねた。目を引くのは、若き日の肖像画。私家版の英文詩集や歌人として名高い与謝野晶子と並んだ写真もある。かつて文学部だけの学びやを打ち立て、「真理はわれらを自由にする」と宣言した人物の姿が垣間見えた。

 義詮は1906年、旧野津原町に生まれた。青年期には晶子・鉄幹夫婦らが教えた文化学院(東京都)で学び、詩作などさまざまな芸術に親しんだ。肖像画は学院の教員が描き、二科展に出品したものだ。

 帰郷後の36年、恩師からの頼みで、別府大学につながる女学校の経営を受け継ぐことに。学校の在り方を模索しながら終戦を迎える。50年には新しい学校制度の下、4年制の別府女子大学文学部へと発展。4年後に男女共学となった。「これからの日本は自由と真理を愛する若者を育てていかなければ」。建学の精神は戦時下の抑圧の苦しみを経て生まれたとされる。

 「あの時代、しかも地方で文学部だけの大学を創るなんて荒唐無稽な話だった。経営は苦労続き。教育上の理想だけでやっていた」

 現学長の佐藤瑠威(るい)(71)は苦笑交じりに言う。彼の目に映った父・義詮は経営者というよりも学者。ギリシャ文学を愛する詩人であり、三浦梅園や帆足万里に傾倒した郷土史家だった。

 大学創設時のカリキュラムには国文学や英文学、史学、美術などの科目が並ぶ。幅広い教養教育を志向する西洋の「リベラル・アーツ」にも通じる授業内容は文化学院とも共通している。義詮は自由で独創的だった母校の学風を再現しようとしたのだろうか。

 県歌壇の重鎮である市内在住の歌人、伊勢方信(ほうしん)(76)は国文学科を卒業した。在学中、学生歌誌を創刊。現在、代表を務めている短歌結社「朱竹」に参加したのもその頃だ。

 「教授陣には県内の著名な歌人もいた。古典を学び、日本人のこまやかな情緒を知ることができた」。倫理やドイツ語などさまざまな教養を身に付ける中で、学ぶ喜びをかみしめた青春時代。学科を超えた交流も大学のよき特色だった。

 文学活動に没頭した学生生活は、その後の伊勢の人生に大きな指針を与えた。

 「別府大学の根幹は何なのか。改めて歴史を調べるうちに、大切なことに気付かされた」。記念館建設の中心になった文学部長の飯沼賢司(65)は言う。

 一時期、人文系学部不要論が取りざたされ、文学部への逆風が吹いた。少年時代、1冊の日本史図鑑をぼろぼろになるまで読み、長じて早稲田大学文学部で史学を専攻した飯沼は、そんな風潮に反論する。「むき出しの感情や欲望が世界を覆う今だからこそ、理性をもって物事を考え、総合的な教養を身に付ける場である文学部は必要だ」

 瑠威は慶応大学で政治学を志したが、思い直して哲学の道に進んだ。父と同じように、普遍的で、豊かな人間性を育む文学部の世界に引き寄せられたのかもしれない。「生活に追われて顧みることのない『生きること』を、深く考える時間にしてほしい」。今も哲学の教授として教壇に立ち、学生に語り掛けている。

 平成に入り、別府大学には新学部が開設されている。文学部一本の時代は終わったが、義詮が追い求めた教育の理想は、これからも大学の魂であり続けるだろう。 (敬称略)