ケロイドのような碑石

人間の眼と作家の眼で書く

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江刺昭子

女性史研究者

江刺昭子

女性史研究者

えさし・あきこ 広島市出身、早大卒。原爆作家・大田洋子の評伝「草饐(くさずえ)」で田村俊子賞。著書に「女のくせに 草分けの女性新聞記者たち」「樺美智子 聖少女伝説」など多数。

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大田洋子・1957年ごろ(筆者提供)

 広島市の中心部を流れる太田川に、原爆ドームから北に向かって、相生(あいおい)橋、空鞘(そらざや)橋、三篠(みささ)橋が架かっている。やさしい響きを持つ三つの橋の右岸に弓なりに伸びる南北約1・5キロの地帯に、かつて「原爆スラム」と呼ばれるバラック群がひしめき、1970年代末に中央公園として整備された。その一角に原爆作家大田洋子の文学碑がある。
(女性史研究者・江刺昭子)

 観光客や修学旅行生は、原爆ドームをはさんで反対側の平和公園にある原民喜や峠三吉らの碑は訪れるだろうが、ここまで足を延ばす人はほとんどいない。原爆の告発に半生をかけながら、原や峠ほどには親しまれず、全ての作品が絶版になって久しい。晩年を無援の中で生きた作家らしく、碑もひとりぼっちだが、強いメッセージを放っている。

 碑というものは、台石に載せた碑石に碑文を刻んだものが多いが、これは「碑石群」ともいうべき独特のスタイル。碑文を刻んだ中心の碑石に向かって、大小15個の自然石が並べてある。あたかも爆心から爆風で吹き寄せられたかのように。

 石は水成岩の輝緑岩。碑をデザインした画家の四国五郎(しこく・ごろう)は、その石を選んだ理由を「まるでケロイドを思わせるように荒々しく苦渋に満ちた色と肌をしているから」と書き留めている(『大田洋子文学碑建立記念誌』)。

 建立から40年を経た今、殺風景だった碑の周辺はこんもりと緑に覆われ、険しかった碑石の表情もいくぶん柔らいで見える。

 中心の碑に彫られているのは、大田の代表作『屍の街』の一節だ。

 「少女たちは/天に焼かれる/天に焼かれる/と歌のやうに叫びながら/歩いて行った」

 大田は市内白島で被爆し3日間の野宿ののち、市内を東から西に逃げる。逃避行と避難先で目にした被爆者の無惨な姿を『屍の街』に克明に記録した。

 作中、目を覆うような死骸の中で大田の妹は「お姉さんはよくごらんになれるわね」と言う。姉は「人間の眼と作家の眼とふたつの眼」で見て書くのだと、妹に告げる。見てしまった者の責任として、最も早い時期に核被害の実相をリアルに伝えた原爆文学の傑作である。

 四国によれば、大田の碑には別のデザイン案があった。

 被爆前までのこの地は、陸軍第5師団の施設が立ち並ぶ軍都広島の中心拠点だったが、原爆で人も施設も烏有(うゆう)に帰した。その跡地に市が応急の「基町(もとまち)住宅」を建てる。住宅周辺の空地や河川敷に、行き場を失った人びとがバラックを建てて住みついたが、そのバラック群の中に、旧軍隊の被服倉庫の残骸があった。

 大田の碑の素材として、それを使ってはどうか。それが別案だったが、建立委員会で話しあいのすえ、今のスタイルに決まる。

 粗末な木組みにトタン屋根を載せただけのバラックがひしめく中に、大田の妹家族の住まいもあった。広島の高校生だった私は、文化祭の企画でその妹の家を訪ねたことがある。迷路のような道を右往左往しながら、やっとたどりついた。

 1953年、大田は東京から来て、この妹宅を足場にこのスラムに通いつめ、翌年『夕凪の街と人と―一九五三年の実態』を世に問うた。

 貧しい被爆者や引揚者、朝鮮人ら、政治からも社会からも見棄てられた人びとの生きざまを描いた。丹念な取材と調査データの裏付けが力強い。ようやく動き始めた被爆者の検診や、原爆傷害者のために米国相手に告訴しようとしている弁護士に希望を託して、渾身のルポルタージュは締めくくられている。

 作中の「人びとよ、これを見られよ!」というのは大田の魂の叫びであろう。大田は再び「人間の眼と作家の眼とふたつの眼」を働かせたのだ。

 「夕凪―」で大田が「虫をばらまいたようだ」と形容した不法住宅群はその後、立ち退かされ、住民は市が建てた中高層アパートに移された。昨夏放映されたNHKのETV特集「〝原爆スラム〟と呼ばれた街で」の冒頭、明るく広い公園の芝生で歓声をあげる若者や家族連れが、ここに何があったか知らないと、屈託のない笑顔でインタビューに応えていた。

 できれば、知ってほしい。1945年8月6日、8千人といわれた兵隊も、馬も、原爆の熱線で溶け、焼かれ、押し潰され、土で覆われた。その土の上に、かろうじて戦争を生きのびた人びとが、貧しい日々を紡いだのだ。

 碑から遠望できる数十棟の中高層アパートは、高齢者や出稼ぎ外国人や母子家庭や在日韓国朝鮮人が多く、経済的・社会的弱者のたまり場になっているという。

 彼女が生きていたら、三たび「人間の眼と作家の眼」で彼らに寄り添ったルポルタージュを書くだろうか。12月10日、大田の55回目の命日を迎える。