お雇いアメリカ人青年教師ウィリアム・ホィーラー:その精神と実践 北の大地を拓き、青年の心を開く

札幌農学校教頭ホィーラー(北大提供)

札幌農学校初代教頭クラークと教授ホィーラー

「私は諸君に知識や技術だけを教えに来たのではない。本当に学んで欲しいのは、人類愛の精神である。神を敬う心である。また何ごとにもくじけない精神である」。

アメリカ人お雇い教頭ウィリアム・S・クラークは学生に語りかけた。明治・文明開化期の高等教育の中で、札幌農学校(北海道大学前身)は極めて特異な地位を占めている。それはアメリカ人初代教頭(英語ではPresident、和訳では「教頭」、実質的には「校長」)クラークのキリスト教を精神的支柱にすえた教育方針を無視しては語れない。アメリカ人のみによる教授陣の指導の下に創建・運営された明治初期の官立高等教育機関は他に例を見ないのである。それはあたかもミッション・スクールのようであった。

南北戦争に将校として従軍し戦火を潜り抜けた体験を持つ50歳の壮年科学者クラークは2人の気鋭の教え子を教授として選び同行させた。クラークが学長をつとめたマサチューセッツ州立農科大学出身のウィリアム・ホィーラー(William Wheeler、1851~1932)とディビッド・P・ペンハローである。二人とも同大学を最優秀な成績で卒業しており物静かな紳士であった。クラークを支えた青年教師の筆頭格が25歳のホィーラーである。彼がクラークの教育方針を理解し率先垂範したことは特筆に価する(ホィーラーについては本連載32回でも紹介したが、今回は彼の精神と実績を語りたい)。

「少年よ、大志を抱け!(Boys, be ambitious!)」。後世に広く喧伝された惜別のことばを残して札幌を後にしたクラークは、太平洋往復の長旅などの日数を除けばわずかに8カ月間農学校の運営や学生指導に当ったに過ぎない。その後、教頭に抜擢されたのがホィーラーである。彼の功績はとかく初代クラークの大きな影に隠れがちだが、約3年間の多方面にわたる功績はクラークに勝るとも劣らない。北海道の近代化は彼を無視しては語れない。

太平洋の波濤を越えて

ホィーラーは嘉永4年(1851)12月6日、アメリカ北東部マサチューセッツ州ボストン郊外のコンコード(自然の残る田園都市)で、豊かな農民エドウィン・ホィーラーとマリア・ライス・ホィーラーの6男2女の4番目の子として生まれた。コンコードは、イギリス植民地の自営農民が独立戦争(Revolutionary War)に立ち上がった地として、また著名な文学者や哲学者を生んだ知的レベルの高い地として知られる。信仰の自由を求めてイギリスから渡って来た初期開拓民の末裔ホィーラー家は敬虔なプロテスタント系キリスト教徒で、コンコードの指導的名家であった。ウィリアムは年少の頃から聡明で、16歳で新設されたばかりのマサチューセッツ州立農科大学に入学した。最年少の一期生だった。

ここで彼は学長ウィリアム・クラークと宿命的なめぐり会いをした。ホィーラーは勉学と文芸にひいでた秀才で、学業以外に、自作の劇を演出したり、学内紙の編集に携わったりして多才な能力を遺憾なく発揮した。その一方で、学生の処遇問題をめぐってストライキを指導し学長クラークと対立することもあった。卒論“Civil Engineering as Applied to Agriculture”(農業に応用した土木技術)には、彼の人生の方向が示唆されている。人類の福祉向上を目指した<水の技術者(農業土木技術者)>を天職とするとの決意が示されている。卒業後は州内の水道や鉄道の設計施工に技師として従事した。その後、ボストンに設計事務所を開設し、水道敷設、河川改修、橋梁建設などの事業に携わった。

太平洋を隔てた日本では、明治政府が北海道開発を急務に掲げた。そこで札幌農学校を開設することになり、初代教頭にクラークを招聘(しょうへい)することになった。破格の高額給料が提示された。クラークは同行の教官としてホィーラーらマサチューセッツ州立農科大学卒業生を選んだ。若きエンジニア・ホィーラーは郷里コンコードの名家の子女ファニー・ハバードと婚約したばかりでもあった。彼は日本渡航に決心がつきかねた。婚約者ファニーをはじめ長兄ハーベイはむしろ日本行きを勧めた。コンコード在住の著名な哲学者・詩人のラルフ・W・エマソンからは日本政府宛の推薦状も得た。

明治9年(1876)6月1日、クラーク、ホィーラー、ペンハローの3人組を乗せた外輪蒸気船「グレート・リパブリック号」はサンフランシスコを出航し同月29日に横浜港に入港した。航海中、ホイーラーは船酔いにもかかわらず船が嵐にあうたびに甲板に出て大波や船の揺れ具合などを観察した。気象や自然現象に対する好奇心は異常とも言えた。彼は出発時から帰国するまで母メアリ宛てに手紙を送っている。文面は端正で、中には鋭い日本観察も含まれている。

札幌時計台(ホィーラー設計)

高等教育者として

札幌農学校の講義は、カリキュラムをマサチューセッツ州立農科大学と同じものとし原則として英語で行われた。アメリカ東北部ニューイングランドに花開いたリベラルで宗教心(ピューリタニズム)の厚い社会環境に育ったホィーラーは、学生に「独立心」「自由な精神」を教えた。彼は「独立」(Independence)との言葉をことのほか愛用した。彼は高等数学、土木工学、英語を担当した。内村鑑三(キリスト教伝道師、文明批評家)、新渡戸稲造(国際経済学者)、廣井勇(土木工学者)、宮部金吾(植物学者)ら後に「天才級」の才能を発揮する学生11人は同校2期生であり、クラークの去った後の入学でクラークの指導は受けていない。

ホィーラーは雄弁術や英文学も教え理工科や農学に偏った教育をとらず全人格的な教養主義を目指した。人類愛と独創的発想こそが教育の原点であり、東洋的暗記主義や権威主義は学問の進歩をもたらさないことを教えた。クラークの帰国後、彼はクラークの年齢のほぼ半分に過ぎない26歳の教頭として学校運営の最高責任者となった。2期生たちは4年間の学生生活のうち3年間、教頭ホィーラーの教育方針のもとに勉学や学外活動に励んだ。キリスト教の洗礼を受けた彼らは、キリスト教徒として生きていくことを誓い合った。ホィーラーは大自然の現場に学生を連れ出し自然観察や測量の実習を行っている。「大自然こそ最高の教師である」と教えた。学生と現地測量に出かけて渓流に落ち同行のアイヌ人青年に救出されることもあった。それ程、彼は北海道内をくまなく歩いた。

気象観測を重視するホィーラーは講義の中でドイツの天文学者ヨハネス・ケプラーの言葉をよく引用した。「自然は美しい運動の法則を持っており、それは観測データを分析することにより見つけることが出来る」。「ケプラーの三法則」により近代科学の最初の扉が大きく開かれたことも教えた。前途有為な青年の心の窓を大きく開いたのである。

彼は学校の「年次報告書」の中で、日本の学問、教育、北海道開拓について「古い制度や思想から脱却すべきである」と文明開化を急ぐ必要性を助言している。国家観では注目すべき意見を示す。

「自主・自由の各国にあっては人民は常に第一に位し、政府は必ず第二に立つものとす」。

彼は期せずして「人は何をなすべきか」を教えたのである。後の東京帝大教授廣井勇はホィーラーの人格的影響から出発して師と同じ土木工学の道を歩んだ。ホィーラーが若い廣井に伝授したエンジニア精神とは何であったのだろうか。それは敬虔なクリスチャンとして人類に幸福をもたらすことを目指し、そのために人類愛の精神を磨き、この精神にそって高度な土木技術を習得することであった。Civil Engineering (土木工学)とは元来こうした倫理観を含んでいる。

ホィーラー墓碑(米マサチューセッツ州コンコード)

開拓の指導者・技術者として

少数の教授陣の中でただ一人の土木技術者であるホィーラーは多忙であった。彼はお雇いの土木技術者として未開の地だった北海道の開発や発展のために多くの実績を残した。彼が教壇に立ちながら、寸暇を惜しんで北の大地を開いた主な事業を挙げてみる。今日札幌市民の誇りであり観光名所となった「札幌時計台」(コロニアル様式、国指定重要文化財)として知られる演武場の設計をはじめ、科学的観測に基づく気象観測所の設立がまず挙げられる。札幌から石狩川沿いの篠路(しのろ)までの水路の拡張と直線化工事のための測量調査、札幌・小樽間の道路と鉄道敷設のための実地調査。これは札幌・室蘭間の計画と比較を行った詳細な報告書となり、予算案も付けて政府に提出された。北大キャンパスに残る北米風の巨大モデルバーン(模範畜舎、国指定重要文化財)の設計施工さらには豊平橋改築、材料強度試験、大そり・水揚げポンプ・除雪機の指導製作、煉瓦造りの指導…青年技師の実績は数え挙げたらきりがない。

約束の2年間の任務が終了するのに際して、日本政府はホィーラーの実績を高く評価し1年間延長することを強く望んだ。ホィーラーは悩んだ末にそれを受け入れ、郷里にいったん帰国して結婚した後、妻を連れて再来日した。1878(明治11年)3月に交わした契約延長の契約書が残されている(原文のママ)。

「上局              外事課
  明治十一年三月二十二日 於札幌
 札幌農黌(ルビのうこう)教頭ウヰルリヤム・ホヰラー貴下

貴下義 本年五月二十日ヲ以テ雇満期ニ相成候処、更ニ十五ヶ月ヲ延期シ即チ本年五月二十一日ヨリ明治十二年八月二十一日迄給料壱ヵ年金貨三千六百円の割ヲ以テ従前同一ノ約定ニ拠リ雇継候条領諾ニ於テハ請書御届ケ出候相成度候 黒田長官ノ命ヲ受比如(ルビかくのごとく)申進候 敬具
         開拓大書記官 堀基」
注:「上局」は「通知書」または「連絡文書」の意」

「真理」に生きる

“To live in Truth toward all mankind with helping hand, kind heart , just mind”
(「全ての人々に分け隔てなく支援の手、親切な心、正しい精神をもって接し『真理』に生きる」)。若き教授ホィーラーの独自の愛唱句でありモットーでもあった。新渡戸稲造は後年回顧して言う。

「人の使い方といい、復命書の議論の立て方といい、又文章の規律の正しいことといい、今更懐古すれば、クラークを除きては、外国教師中この人(注:ホィーラー)の右に出づるはなかるべし」(「北大百年史編集ニュース」)。確かに彼の年齢を考えるとき、その才能は傑出していたと言える。

ホィーラーは3年間の任務を無事終えて明治12年(1879)末に札幌を後にした。帰国したホィーラー夫妻は郷里コンコードの人々から暖かく迎えられた。彼の邸宅は郷里の自然豊かな丘に建てられ、札幌時代に夫妻でよく散策した円山公園からとって「円山館」(MARUYAMA KWAN)又は英語で“The Round Hill House”と名付けられた。彼が母校の交友会誌に寄稿した「札幌農学校について」に注目したい。日本や農学校の記憶が鮮明な段階での鋭い「日本教育論」である。一部を引用する。

「日本の学生は欧米の学生に学問への情熱では引けをとらないと指摘する。しかしながら、現実の生活の中では、西洋文明の推進力であり成果である実際的で進歩的で自覚に満ちた精神については、日本の学生ははるかに及ばない」
「何世紀もの間、過去の日本の学問的関心は、自然、社会、人類の能力に関する最高の法則や規則に深い関心を示さずに来てしまった。中国の活力のない古い知識を大切にして尊敬しすぎたことも、大きな飛躍が出来なかったことにつながっている。ぼう大な量の文字を習得することが唯一の知識人たりえる手段だと考えることにより、さらなる知力や進歩を獲得することがなくなってしまっている。一部の芸術分野では完璧の域に達しているのに、現実的な設計や創作ではそうした方策が無視されている」
「日本の学問はぼう大だが意味がなく、記憶力を最高に高めるだけで、創造する能力を高めない」。現代の日本教育界にも通じる卓見である。

帰国後、コンサルタントとして活躍

ホィーラーは国際港湾都市ボストンの中心街に建築土木コンサルタントの事務所を構えた。その広告文には「日本政府に招聘されたシビル・エンジニア」とのうたい文句が強調されている。彼は数少ない日本政府に招聘された著名人であった。その活動は目覚しく上下水道工事の権威者と見なされるようになる。(今日ホィーラーは、上水道技術のパイオニアとして世界的に著名である。彼が開発した水質浄化システムは「ホィーラー式浄化濾床」(Wheeler filtration bottoms)として今でも使用されている。また彼が発明し特許をとった機器類は100点を越える)。財産には恵まれたが、つつましく生きることが生活信条であった。昭和7年(1932)7月1日、老衰のため逝去した。享年81歳。夫妻には子どもはなかった。

参考文献:拙書「お雇いアメリカ人青年教師、ウィリアム・ホィーラー」(鹿島出版会)

(つづく)

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