父の名に×印、政治家目指した原体験 「心一つに」翁長氏が抱いた夢の行方

米軍普天間飛行場の名護市辺野古移設に反対する集会で、カードを掲げる沖縄県の翁長雄志前知事=2015年5月、那覇市

 米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)の名護市辺野古移設を巡る政府と県の協議はまたも物別れに終わり、辺野古沿岸部への土砂投入が間近に迫る。「基地問題は沖縄の政治家の宿命」。そう語っていたのは、広大な米軍基地を抱える現状に異を唱え、辺野古移設に反対し続けた前県知事の翁長雄志氏だ。8月、67歳で死去した「保守本流」の政治家は、沖縄人(うちなーんちゅ)を愛し、幼いころからの夢を実現しようと人生を駆け抜けた。 (共同通信=沢田和樹)

12月中旬にも土砂投入が見込まれる辺野古沿岸部=11月6日、(小型無人機から)

 「ピエロになっても言うべきことは言わないと。私のみじめさは何でもないが、県民のみじめさは絶対にあってはならない」。2015年、共同通信のインタビューで翁長氏はこう言い切っていた。

 14年に保守と革新が結集した「オール沖縄」を支持母体とし、知事に就任した。知事選で袂を分かった自民党からは「革新に魂を売った」と非難され、革新陣営からは「いつ裏切るか」と警戒されたこともある。ただ、県民本意の考えは揺るがなかった。原体験は幼少時代にさかのぼる。

 翁長氏は5人兄姉の末っ子として生まれた。父助静(じょせい)氏は真和志市(現那覇市)の市長、兄助裕(すけひろ)氏も副知事を務めた政治家一家で、幼いころからポスター貼りを手伝った。当時の沖縄には基地に依存した経済構造が強く残り、生活を優先する保守系の助静氏は、基地反対を強調する革新系と激しく衝突した。

 小学生の時に父が落選すると、職員室の黒板に書かれた父の名前には×印。先生たちは万歳をして相手候補の勝利を喜んでいた。なぜ基地を挟んで県民がいがみ合わなければならないのか。「心を一つにしたい」。その夢を胸に抱き、小6のころには「那覇市長になる」と宣言していた。

 「保守本流」。2006年まで2期8年、沖縄県知事を務めた稲嶺恵一氏はこう評する。翁長氏は40代で自民党県連幹事長を務め、全国に先駆けて自民、公明の連携体制を実現した。00年の那覇市長選で32年続いた革新市政から市長の座を奪還するなど、選挙は1985年の那覇市議選から2014年の知事選まで9戦全勝。本人は「小学校の児童会長も入れれば10勝だ」と言い周囲を笑わせた。

2014年の沖縄県知事選で当選し、那覇市内でカチャーシーを踊り喜ぶ翁長氏=14年11月16日

 一方、妻の樹子(みきこ)さんには「自民はベターだが、ベストではない」との思いを明かしていた。辺野古移設推進を主張した時期もあるが、09年に移設先を「最低でも県外」と掲げた民主党政権が誕生すると、県内移設反対のうねりに背中を押されるように反対を訴え始めた。

 知事当選の原動力となった「オール沖縄」は幼いころからの理想とも言えるが、就任後は苦難の連続だった。辺野古移設を巡る国との裁判や米軍関係者による女性殺害事件、米軍機の度重なる事故―。次男で那覇市議の雄治(たけはる)さんは「那覇市長で終わるのが一番楽だったはずだ」とこぼす。ただ、翁長氏は「辺野古移設を認めて県民を裏切ったという思いが生涯続くことに比べれば、今の苦労は気が楽だ」と語っていたという。

辺野古移設に反対する集会で、翁長氏の話を聞く大勢の人たち=2015年5月17日、那覇市

 翁長氏はどんな父親だったのか。そう問うと「父親の感想を求められることほど難しいことはない。ひたすら普通のお父さんだった」と答えた。思い出すのは千葉県の大学に通っていたころ、上京した父と会った日のことだ。「コートが欲しい」と言って百貨店に入った翁長氏が、値札を見ると黙って店を出たのだという。「見栄を張ろうとしたけど、そういう値段じゃなかったんでしょう。質素さを挙げれば暇がないですよ」と笑った。

 翁長氏は「一番のぜいたくは政治をさせてもらうこと」と家族に語っていた。食事は市場で商店を営んだ母の得意な魚の酢みそあえなどを好み、タンスの中には低価格が売りのユニクロの衣類がずらり。樹子さんは「私や娘が口を出しても『僕の生き方だから許してね』と言われ文句が言えなかった」と振り返る。「彼はずっと政治家になりたくて努力し、沖縄のために強くありたいと思い続けていた。政治をすることが彼の幸せで、他のぜいたくはいらなかったのだと思う」

自宅に置かれた翁長氏の祭壇前で取材に応じる樹子さん=9月6日、那覇市

 記者として翁長氏を追う立場でも、素の表情を垣間見る機会は多くない。ただ、時には表情を崩し「本当はこんな顔なんだよ。耳や鼻を動かすのも得意だ」とおどけてみせた。石原裕次郎の物まねを披露したり、ネットではびこる沖縄のデマを笑い飛ばしたり。記者を招いた新年会では孫を抱いて満面の笑みで「じいじ」の一面も見せた。

 亡くなる前、樹子さんは病室で夫が語った言葉を覚えている。「基地に反対とか賛成とか言うけど、心の中でね、沖縄が未来永劫このままでいいと思っている沖縄人は一人もいないよ」

 最期の瞬間、子どもたちから「お父さんが大好きだよ。誇りだよ」と声を掛けられ、旅立った。「悔いはない」。数日前、雄治さんにそう言い残していた。

 雄治さんは「みんな涙を流してくれた。でもね、僕にはまだ全く実感がない。息絶えるのも、燃やされるのも見たのに、百貨店での親父の顔を思い出すと、なんだろうな…」。声を詰まらせた。

 「政治家は使い捨てだ。後世に何を残せるかであって、政治家個人が輝き続けるものではない」。家族にそう言っていた翁長氏。9月30日の沖縄県知事選では後継候補の玉城デニー氏が過去最多得票で圧勝し、思いはつながった。

 自宅には数え切れないほどの手紙が届き、見知らぬ若者が突然訪れ、涙を流しながら「ありがとう」と手を合わせていった。樹子さんは「あなた、幸せ者だよ」と遺影に語り掛けた。沖縄を愛し、愛された最期だった。

沖縄県名護市辺野古の埋め立て承認をめぐる代執行訴訟の第1回口頭弁論を前に開かれた集会で支援者に囲まれる翁長雄志氏=2015年12月2日、那覇市

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