語学は単なる“ツール”。ダバディ氏が説く海外で成功するヒント[PR]

株式会社by ZOOが運営する「b わたしの英会話」は女性限定・初心者専門のマンツーマン英会話スクールとして、首都圏8カ所(注:2019年1月に池袋に新スクール開校予定)で展開しています。

「b わたしの英会話」は英会話をはじめられない人にはじめの一歩を歩んでもらい、続けることが難しい英会話というテーマにおいて、「英語学習を“習慣化”させる」ことを特徴にしています。私たち日本人にとって非常に敷居の高い語学学習。一方で、海外の人たちはどのように英語や日本語などの語学学習を行ってきたのでしょうか。

2002年にサッカー・日韓W杯でトルシエJAPANの通訳を務めていたフローラン・ダバディ氏は日本のスポーツ界における“多言語話者”の代表格です。彼は現在WOWOWのテニス番組のナビゲーターや、フランス大使館のスポーツイベント制作など、スポーツ分野で幅広く活躍しています。

幼少期から異文化への関心が深かったダバディ氏が操ることのできる言語は7つ(フランス語、英語、日本語、スペイン語、イタリア語、ポルトガル語、韓国語)。

彼はどのような経緯で日本語を学び、外国人として日本でスポーツに関わる仕事を担うことになったのでしょうか。私たち日本人が語学を習得するにあたりヒントとなる発見が数多くあります。

「フランス人が得意ではない言語」という理由で日本語を選ぶ

フランスでは中学から第1外国語を勉強しますが、私は小学3年から英語の先生をしていた祖母のプライベートレッスンを受けていました。国語や数学の授業は得意ではなかったですが、祖母のおかげで語学に関しては自信を持てていましたし、中学から始まった語学の授業も楽しめていました。

フランス人は語学が得意な民族ではないのですが、私の家庭は例外でした。祖母が英語の先生で、母もニューヨークで雑誌の編集をしていた関係で、語学を得意としていました。その母に連れられて、イギリスで行われたサマーキャンプに参加して、現地でサッカーと語学を学ぶ機会がありました。このようにして10歳から5、6年間は、夏にスポーツと語学を学ぶために約6週間の留学に行っていましたね。

学校でも英語の成績は良く、第2外国語のスペイン語もモチベーション高く学ぶことができていました。それから高校3年になって就職を考えた時に、やはり得意な語学を生かした仕事に就きたいと思ったんです。とはいえ、フランスには英語圏の国とのハーフも多かったので、その人たちに英語で勝ることはできません。

それでも語学に関わる仕事がしたかったので、フランス人があまり得意ではない言語を考えてみたところ、東洋の言語にたどり着きました。そして、東洋の中でも好きな国として、ベトナムと韓国と日本の3カ国が頭に浮かび上がりました。リサーチを重ねた結果、最終的に日本語を学ぶことになったという経緯です。

1993年に、パリにある東洋語を学ぶ大学に入学して、日本語を勉強し始めました。フランスの植民地時代にエリートを養成していた学校で、教育はかなりしっかりとしています。週に20時間くらい日本語と日本文化を勉強して、2年間で常用漢字をマスターしなければならず、それを達成しないと進級できませんでした。

大学で勉強しながら他のビジネスを学ぶ学生もいましたが、私はすべての時間を日本語の勉強に費やしていました。1996年には、静岡大学で1年間留学をした経験もあります。

人工的な日本語を自然にするためのサイクル

それから1998年に来日しましたが、すぐにサッカー日本代表の通訳のオファーがありました。もちろん社会人としては日本で働いたことがなかったので、通訳になるにはハードルがありましたし、日本語にすごく自信があったわけでもなかったのですが、引き受けることにしました。

やはり日本語に比べると、ラテン語のほうが綴りも似ているものが多いですし、文章も作りやすさがあります(注:フランス語はラテン系の言語であるため、ラテン語、同系統のイタリア語、スペイン語などと似ている単語が多い)。

日本語は言語系統が全く異なるため難しかったですが、一つのパズルを組み立てるような感覚で挑戦していたので、楽しめていました。(注:日本語は独立言語であるため、兄弟言語がない。したがって、日本人が語学を学ぶときにはどの言語であってもこのダバディさんと同じ感覚で学ぶ必要がある。)

ただ、フランスで日本語雑誌の編集のアルバイトをしていた時には、編集者の方から私の日本語は「人工的だ」と言われたことがあって。私はネイティブもハーフでもなく、言葉を文法に従ってくっつけているだけだったので、自然な日本語にならなかったんです。

1994年に日本へ行った時には、3回にわたってホームステイをしていたのですが、とにかく日本人の言い回しや決まり文句を覚えて、翌日に実践するというサイクルを繰り返していました。努力の甲斐もあって、友だちの会話を聞いて質問できるまでには成長しました。

1日が終わった時にはヘトヘトでしたけどね(笑)。進歩しているという感覚よりも、ただただ毎日疲れていたのを覚えています。それでもフランスに戻った時には、他の学生よりも確実に日本語が上達していることが分かりました。英語も日本語も、実際にその言語を使っている国に行って勉強できたことは大きかったと思います。

(※ b わたしの英会話で推奨する英語学習法は、知識としての単語や文法を実際のその人が母国語で使うシチュエーションに合わせた文例に合わせて考えなくても出てくるように反復練習する方法。人間の脳ははじめ知識を前頭葉で習得する。これは新しいスポーツを学ぶときも同じ。

ただ、このままだと常に考える必要があり実践的でない。無意識に使いこなせるようになるためには何度も繰り返す必要がある。運動だと練習であり、語学であれば何度も書く、読むといった手や口を動かす運動的な学習。運動性の記憶(非陳述記憶)は語学もスポーツも一度定着すると忘れない。自転車を久しぶりに乗ってもすぐに運転できるのと同じ。そう見るとこのダバディさんの学ばれ方はとても理にかなっていますね。)

幼少期から語学ではなく“異文化”が好きだった

フランスにいる時も、家に日本語の単語を書き出したポストイットや常用漢字チャートを貼ったり、畳を買ってその上に布団を敷いて寝たり、和を感じられる空間を作っていました(笑)。テレビでも、フランスの番組ではなく木村拓哉さんが出演していた「ロングバケーション」というドラマを見ていましたね。

イタリア語を学んでいた時には、ガゼッタ・デロ・スポルト(イタリアのスポーツ新聞)を読んでいました。日本語の雑誌も高価だったのでなかなか買えませんでした。それでも、私はお酒やタバコに手を出さない人間だったので、持ち金はほとんど日本語や日本文化の勉強に費やしていましたね。

Jリーグのテレビゲームや、実況パワフルプロ野球(パワプロ)はやっていました。パワプロは子供向けに作られていたので、ふりがなも振ってありましたし。ゲーム好きの人であれば、ゲームをその国の言語のバージョンでプレイするなど、何か好きなものを関連づけて学ぶことは大事だと思います。

スポーツにおいても、特にチームスポーツであれば語学はすごく重要な要素です。競技中でも日常でも、自分を表現することと、相手が言っていることを理解するために必要になりますし、実際に私もその面で戸惑ったことはあります。

留学に行くと、ルームメイトが必ずしも英語を話せるわけではありません。アメリカに行った時は、ルームメイトがドイツ人だったのですが、私はドイツ語を話すことはできなかったので、お互いカタコトの英語でがんばって話していました。そうすることによって一緒に勉強して、成長できていたと思います。

恵まれた環境で“周りと違うこと”に挑戦

語学は単なるツールでしかありません。私が好きなのは語学ではなく“異文化”で、幼少期は国旗が好きでしたし、スポーツを通じて国歌も好きになりました。異文化に対する好奇心は昔から旺盛だったんです。日本で留学を終えてフランスに帰ってからも、日本語のスペシャリストになりたいというよりは、日本に住みたい、日本の文化をもっと知りたいという気持ちが強くありました。

それに加えて、私は子どもの時から周りと同じことをやりたくないという想いがあったので、だからこそヨーロッパ以外の言語をマスターしたいなと。家族もそれを認めてくれましたし、友達も応援してくれていたので感謝しています。

私は子どもの頃から周りができていることができませんでしたが、両親からプレッシャーをかけられることもなく、ゆっくりと自分で考える時間が与えられていたんです。何かに挑戦して失敗したとしても、まだ大丈夫だ、と思えるような恵まれた環境でしたね。

<後編へ続く>

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