ReguRegu「心の中の楽園〈パペトピア〉へようこそ── パペット・アニメーションを巧みに操る稀代の魔術師がいざなう安息の地」

この5年のあいだの環境の変化、影響を受けたモノたち

──前作の発表から5年のあいだに作品づくりに影響を与えた出来事、あるいは映画や小説などの作品はありましたか。

小磯:前に住んでいた、元は下宿屋だった古い家から、やっぱり古いのですが、小さな森のような庭のある家に引っ越したことで、以前なら難しかったことができるようになりました。たとえば『捕食』に出てくるダンボールハウスを実際につくっちゃうとか、『ふとどきな果実』での、生えているヒメリンゴの木と、家のセットを組み合わせたりとかです。アトリエ以外に、誰にも気兼ねなく作業のできる野外を得たことにより、表現できることの幅が広がりました。

カヨ:札幌の美術家、斎藤幹男くんから、エンドロールで「え〜っ…」と言ってしまうような映画をいろいろ観せてもらった時期があったんです。「え〜っ…」という感じというのは説明が難しいのですが…。具体的には『トスカーナの贋作』(アッバス・キアロスタミ監督)、『太陽はひとりぼっち』(ミケランジェロ・アントニオーニ監督)、『永遠の語らい』(マノエル・ド・オリヴェイラ監督)などで、こうだと思って観ていると、いつの間にか違うところに連れていかれていて、結果的には感動しているというような、固くなった脳をぐにゃぐにゃにされる感じです。ちょうどその時期、個人的にカフカに浸っていたので、カフカの世界にも通じるその表現にすごく影響を受けました。ジャンプしたところとまったく違うところに着地するような作品をつくりたい、と。この影響は作品集『パペトピア』の中では『ずっとさがしてる』に色濃く出ていると思うのですが、まだまだうまくできていません。最近では、映画プロデューサーの福間恵子さんのエッセイ(ドキュメンタリーマガジンneoneoのWEB版に掲載の『ポルトガル、食と映画の旅』)で紹介されていて、アントニオ・タブッキという作家を知り、『インド夜想曲』という小説で同様の衝撃を覚えました。この感覚をもっと突き詰めたい、とますます思っているところです。

──去年の8月に高円寺のアンノウンシアターで『ReguRegu Film of 2014-2017』という上映会が開催されましたが、観客に生でショートフィルムを観てもらう経験がその後の作品づくりに活かされたところはありますか。

小磯:札幌でもやったことがなかった単独の上映会はいろいろと嬉しくて、ついつい舞い上がってしまい、冷静な自分を取り戻すのに数日かかったほどでした。たくさんの人に観てもらえたことはもちろん、『私たちの夏』『秋の理由』など、私たちが影響を受けた作品を撮った福間健二監督夫妻、そして、ヤン・シュヴァンクマイエルやチェコアート研究の第一人者の赤塚若樹さんに会場で褒めていただいたことは、大きな自信になりました。

──3作目となる作品集をつくるにあたり、気に留めたのはどんなことですか。

小磯:前の2作は、ミュージックビデオ以外の短編作品を時系列で並べていたのですが、今回は時系列ではなく全体の流れを考えた順番にしました。ひとつずつ好きなように選んで観ていただいても良いのですが、「ALL PLAY」で一気に観ていただくと、よりReguReguのやりたいことが伝わるんじゃないかな、と思います。

「本当にこんなことがあった」と思えるくらいまで思いつめる

──『人造生物ホーンファミリー主題歌』、『ずっとさがしてる』、『パペトピアの歌』の3作はいずれも額の真ん中にツノの生えた4体の人形と博士が登場するので関連作と言えますが、ReguReguの作風には〈設定のつくり込みの面白さ〉があると思います。ある孤島で博士がツノの生えた人造生物をつくっていて、それらを主人公にした子ども向けの番組が制作されて日本と旧ソ連で放送されたものの、あまりの内容にスポンサーが1話限りで下りてしまい、フィルムも火災で焼けて残っていない…。虚構でありながらいかにも実際にあったような話に思えるし、昨年、札幌のギャラリー犬養で開かれた個展では実際に『人造生物ホーンファミリー主題歌』のシングル盤のジャケットまで展示されていました。まず、『人造生物ホーンファミリー』という番組はどんなものにインスパイアされて着想に至ったのですか。不穏なピアノと歌が主体の主題歌は『妖怪人間ベム』を連想させますが。

小磯:主題歌はおっしゃる通り『妖怪人間ベム』のような雰囲気にしたくてつくったのですが、そもそもの始まりは何かのインスパイアではなくて、知人からエゾシカのツノを大量にいただいたことが発端でした。このツノで何かつくろう、と考えたことから始まったんです。こんなツノが額に生えている人がいたら、どんなことが起きるだろう。その人はきっとみんなから気味悪がられて、ひとりぼっちになるんじゃないか。それで自分と同じツノを持つ仲間をつくろうとするんじゃないか…。そんな物語を二人の頭の中でどんどん膨らませていきました。

カヨ:私たちは宮沢賢治の『注文の多い料理店』の序文がすごく好きなのですが、その中にこうあります。

「ほんたうにもう、どうしてもこんなことがあるやうでしかたないといふことを、わたくしはそのとほり書いたまでです」

この一文はいつも意識していて、「本当にこんなことがあった」と思えるくらいまで思いつめる、といった感じで物語をつくっています。要するに妄想ですね。だからヘンテコなほどのつくり込みになってしまう。でも「本当にこんなことがあった」と思うのだから仕方がないんです。

──『ずっとさがしてる』ではストップモーション・アニメーション以外にモノクロとカラーの実写がふんだんに盛り込まれています。『捕食』や『ReguReguマッチCM』以降、実写を多用することが増えたように感じますが、あえてストップモーション・アニメーションに特化しないのは、来たるべき長編映画の製作を見据えてのことですか。

小磯:長編映画の構想はまだまだ全然できていなくて…。実写を多用しているのは、ただ単に思いついたからなんですよね。もともとアニメーションにこだわりがあるわけではないので、そのときに思いついたアイディアをどんどん取り入れるようにしているんです。これまでにも、『魔女の卵』の鎌田理恵ちゃん、『空の切符』の永田塁くん、といった、身近な人がイメージに浮かんできて、お願いして出てもらう、ということがありましたが、今回も『ずっとさがしてる』で男性と子どもが出てくるシーンを思いついて、友達の木村理臣くん(札幌のデザインユニットAmejikaの一人)と彼の息子さんに出演をお願いしました。さらにダメもとで現場に付き添いで来ていた奥様の安田香澄さん(同じくAmejikaのもう一人)にも出演を依頼、急な申し出にも関わらず快諾していただけて、本当に思った通りの画面ができたのでありがたかったです。

カヨ:『捕食』は段ボールハウスに住んでいながら気持ちは紳士、そしてとても食いしん坊、というキャラクターをまず思いついて、これは小磯さんしかいないと(笑)。基本的には二人だけでつくりたい、という思いはあるのですが、ときどきどうしても思い浮かんでしまうシーンがあって。そんなときには、思い浮かんでしまった人に出演をお願いして、つくるしかない。役者さんではない、雰囲気のある人に、その人のイメージのままで出てもらいたいんです。人形に出演してもらうのと、気持ちは同じですね。

ひとりにひとつずつ〈パペトピア〉がある

──『ずっとさがしてる』は中盤にあやつり人形の歌で物語を進めていく手法が取られていて、最後も「♪どこいったの?」という歌で締められます。これまでの作品はカヨさんの弾くピアノが劇伴の主体でしたが、『人造生物ホーンファミリー主題歌』や『パペトピアの歌』然り、〈歌〉を物語の中で効果的に使う作風が近年顕著になったように感じますが、それは意識してのことですか。

カヨ:人形に台詞を与えるということに違和感があって、言葉がないことでかえって語れること、にこだわってきたように思いますが、『人造生物ホーンファミリー主題歌』で歌詞を書いたときに、言葉があることで短くスッキリ伝えられること、歌は歌であって台詞ではないので違和感がない、ということに気づきまして。今さらなのですが。そういえば小磯さんはもともとボーカリストじゃないか、ということも思い出したりして、唄ってもらうのが面白くなってしまい、『すっとさがしてる』『パペトピアの歌』と続けて歌をつくりました。歌と物語との組み合わせは今後もやっていきたいと思っています。

──実際に『人造生物ホーンファミリー』という番組自体をつくってしまおうとは考えませんでしたか。

小磯:つくりたいという気持ちはあります。つくりたい、というより自分たちで観てみたい。でも一体どんな番組だったんだろう、というのはまだ想像の段階なので、いつか、まるでその番組の秘蔵映像が発掘されたかのようにはっきりと、二人の頭の中に浮かんでくるまでは待とうと思っているんです。

──『パペトピアの歌』では「みんなと一緒にいるときにふとひとりぼっちみたいな寂しい気持ちになる、そんなときは心の中でこの歌を唄う」と歌唱パートに導かれて、「ひとりで遊ぼう」と唄われます。また、「ひとりにひとつずつ〈パペトピア〉がある。そう思えばいい」という博士の台詞も強く印象に残ります。〈パペトピア〉=パペット(あやつり人形)+ユートピア(理想郷)の造語だと思いますが、この言葉にはどんな思いを込めたのですか。どれだけ失意の淵に沈んでも心の安寧さえ守れば良いというメッセージでしょうか。

小磯:そうですね、〈パペトピア〉は心の中にある、ひとりで逃げ込む場所なんです。そこには悲しいことも何もわからないで、ただ遊んでいる小さな自分がいる。そんな自分と無心になって遊ぶことができたら、寂しさも辛さも消えちゃうよ、という思いを込めました。

カヨ:「ひとりにひとつずつ〈パペトピア〉がある。そう思えばいい」という博士の台詞が印象に残る、と言っていただけて嬉しいです。最初のバージョンでは博士に「〈パペトピア〉は誰にでもある、みんなだって同じだ」と言わせて、同じ舞台でみんなが踊っているような描写をしていたのですが、そこには矛盾があるのでは、というご指摘をいただき、なるほど、と考え直しました。〈パペトピア〉はひとりになる場所であるはずなのに、まるで他のみんなもそこにいるみたいなのは確かにおかしい。そこで「ひとりにひとつずつ〈パペトピア〉がある、そう思えばいい」というふうに書き換え、同じように見えてもちょっとずつ違う、といってもカーテンの色が違うだけなのですが、とにかくちょっとずつ違う、それぞれの〈パペトピア〉に変更しました。別に他のみんなにも〈パペトピア〉がある必要なんかないし、そんなことは気にせずにひとりで遊べばいいんだとは思います。でも「そんなふうに逃げているのは君だけじゃないはずだ」ということを博士に言ってもらわないと、思いきりひとりになって遊ぶことすらできない、そんな弱虫の自分のためにこの台詞を入れることにしました。情けないことに、ひとりになりたい、という気持ちと、ひとりになりたくない、という気持ちがいつもせめぎ合っているんですよね。そういう気持ちも隠さずに表現することにしたんです。

カヨの〈ひとり遊び〉を作品にするための行為=ReguReguかもしれない

──先日、美術家・作家の伴田良輔さんと話をした際、少女とはひとり遊びが上手な存在であるという興味深い持論を伺いました。「少女はおはじきをしたり絵本を読んだり、常にひとり遊びをしている。自分の世界を自分で築いて、その主人公になっている。少年にもそういう要素はあるけど、少女ほど空想力は豊かじゃない」と。『パペトピアの歌』の「ひとりで遊ぼう」という歌を聴いて、その伴田さんの話を思い出したのですが、〈少女性〉はReguReguの作品づくりにおいて不可欠な要素だと思います。小磯さんは自身の〈少女性〉をどう捉えて作品づくりに活かしていますか。また、カヨさんは小磯さんの〈少女性〉をどう見ていますか。

カヨ:「少女とはひとり遊びが上手な存在である」とは確かにそうかもしれません。そういう意味では、小磯さんは〈少女性〉が強いほうですよね。一緒になって空想の中で遊んでいるようなところがあるので。しかしビジュアルがあまりにも〈少女〉じゃないので、その質問には戸惑ってしまいました(笑)。

小磯:小さな頃はスポーツ全般が大嫌いだったので、野球やサッカーに夢中な同性よりも、部屋で女の子と一緒に本を眺めたり、話を聞くほうが断然楽しくて…。でも、決して女性になりたかったわけではなく、男の子の〈そうでなければいけない〉に抵抗を感じていて、そこに友達というより、社会とは別世界にいる〈仲間〉を感じていたんだろうなと思います。だんだん成長して、非常識を美徳とする、ロックに夢中になり、男同士で遊ぶことが増え、それがそのままバンドになって、その頃のことは忘れていくのですが、カヨさんと一緒に何かをつくるようになって、蘇った感覚が確かにあるのです。毎日、彼女と一緒に本を眺めたり、次の作品を考えたりしている今は、〈そうでなければいけない〉世界から外れても幸せだった、本当の仲間のいる自分に戻ったような気がするのです。私の〈少女性〉というのは多分、自分にとっての〈パペトピア〉で、小さな私は楽しく少女と遊んでいるのです。結局、彼女の〈ひとり遊び〉を作品にするための行為がReguReguなのかもしれません。だから才能のある方に手伝ってもらえば、もっと完成度を上げることはできますが、不器用ながらも2人だけで全部やっているのだと思います。

──本作の収録作品の中では最古の『触覚』は、むかしは仲の良かった夫婦の物語で、ある日突然、夫の頭に触覚が生えるところから話が転がりだします。『ずっとさがしてる』に出てくるツノの生えた4体の人形もそうだし、『捕食』に登場する触覚のある人形然り、『いちばんのり』のツノの生えた鳥然り、ツノや触覚は近年のReguReguの作品において一貫して重要なオブジェクトとなっています。それらは人間ならざるモノが放つ〈気〉の象徴のように思えますが、どんな意図があるのでしょうか。

小磯:ReguReguの作品に出てくるツノや触角は、他者との明らかな違いを示す、〈しるし〉のようなものだと考えています。それは罰を与えられているようにも見えるし、特別な存在であることを示しているようでもある。そのどちらであるかは、見る立場や考え方によって変わってくるものなんだと思います。

──『触覚』は、互いに触覚のある夫婦の仲睦まじいスナップで終わります。これはマイノリティに対する共感というか、ReguReguなりの問いかけなのでしょうか。

小磯:そうですね。小さなことでも深刻なことでも、何かを抱えている人みんなに、隠さなくてもいい相手がいて、隠さなくてもいい場所があればいいのにな、と思います。そんな単純なことではない、と怒られてしまいそうですが、本当にそう思います。

わかり合いたいと願うその姿は美しい

──『ふとどきな果実』は、口にすると空洞だった目に瞳が入る謎の果実をめぐる物語ですが、この果実は何かのカリカチュアなのでしょうか。たとえば輪廻する念や執着といったような。

カヨ:『ふとどきな果実』では、主人公の夫婦は何かを信じていて、それを信じない人々は皆からっぽだ、と思っている。だから彼らから見ると、他の人たちの目は空洞に見える、という世界を描いています。でも違う立場から見れば、その夫婦のほうが空洞に見えているのかもしれない。あの果実は、念や執着、というものに近いですね。信じる思いが強すぎて、実ってしまうものなんだと思います。結局、夫婦は果実を実らせすぎてしまう。そして無理に他人に信じさせようとしたために、あのような結末を迎えてしまうのですが、その姿はできるだけ美しく描こうと思いました。世の中には自分とは違う考え方の人がたくさんいて、みんなとわかり合うことなんて絶対にできない。悲しいこともたくさんある。だけどわかり合いたいと願うその姿は美しいんじゃないか、という思いでつくりました。

小磯:ラストのシーンは、テロリストって、こんな気持ちなのかもなって思いながらも、あの夫婦を自分たちに重ねてもいましたね。

──『捕食』は本作の収録作品の中でもコミカルさが際立つ作品で、ゴミを漁って食べ物を探し続ける小磯さんの怪演ぶりが楽しめます。作中で手塚治虫の漫画『ブッダ』が映る場面がありますが、これはどんな意図があったのでしょうか。『ブッダ』に作品のテーマと重なる部分があるとか?

小磯:あの男性の住居には、実はいろいろなものが潜んでいるのです。『ブッダ』もそうですが、三島由紀夫の全集に、ギター。壁にはモナリザを裸にした絵画。この絵画は札幌の画家・松川修平さんの絵を使わせていただきました。これらをあちこちに配置することによって、今でこそ段ボールハウスの住人である彼がどんな人物なのか、なんとなく考えさせるような雰囲気をつくりました。自分たちの中ではかなり明確に人物像をつくったのですが、そこははっきり説明しないほうがいいかな、と思います。どんな人、というのは観る人がそれぞれに感じてくれたほうが嬉しいので。ただひとつだけ、彼についての情報を。実はあの部屋の中にはReguReguの最初の作品集『ゆめとあくま』に収録の『まりめろつうしん』に出てきた大きな時計も潜んでいるのです。裏の設定として、実はあの男は『まりめろつうしん』に出ていた男と同一人物なのです。何があってああいう暮らしになったのかは、また次回作で説明されるかもしれません。

──『いちばんのり』はストップモーション+実写+アニメーションを駆使したReguReguの全部盛りのような作品ですが、レース中に人形たちが向かい風を浴びる場面がとてもリアルですね。本作収録の作品で、もっともストップモーションで難儀したのはどの作品のどんな場面でしたか。

小磯:やはり『いちばんのり』のレースシーンは大変でした。レースに出場する人形たちを一度に並べると、狭い撮影部屋はぎゅうぎゅうで、走っているところなんかは撮れないのでグリーンバック合成をするしかない。それが技術不足で全然うまくいかず、試行錯誤の毎日でした。ストップモーションで映像をつくるようになって10年になりますが、まだまだ難しいことばかりですね。でもそのぶん、出来上がった作品を観るときの喜びはひとしおなのです。

生まれちゃったモノは、シャレになっていなくて面白い

──『いちばんのり』でレースに優勝したツノの生えた鳥が、賞品として鏡を手にします。もうこの世にいないファミリーが待っている鏡の向こうもまたある種の〈パペトピア〉なのでしょうか。

カヨ:そうですね、あれもまた自分自身の楽園という意味では同じようなものですね。〈パペトピア〉は自分の内にある楽園ですが、鏡の向こうの世界は失ったものたちの楽園、というところでしょうか。あの年の夏に、尊敬する舞踏家の室野井洋子さんが亡くなってしまい、こんなふうにだんだん、こちらの世界の素敵な人がいなくなってしまうのなら、いずれあちらの世界のほうがずっと素敵になってしまうなあ、いっそ早く行ってしまいたいなあ、と失意のなか考え込んだりしながら、つくった作品です。だからあちらに行くことは怖いことではなくて、いちばんのりのご褒美、ということにしたんです。でも、それでも、この世界は美しいです。まだ見ていたいと思いますし、この映像を観てくださる皆さんにも、そう思っていてもらいたい。そういう気持ちを、あの夕陽が沈む海辺の場面に込めました。実はブッチャーズの『ocean』のミュージックビデオに使った太陽と同じ映像を入れているんです。

小磯:あのシーンは特別だもんね。撮影しながら、私たちの人生と彼らのレースがどんどん重なってゆく感じがしました。

──2016年の『8th 北の燐寸アート展』で販売されたReguReguマッチ(オマケ付き)のコマーシャル作品『ReguReguマッチCM』はReguReguのコミカルな側面が出た小品ですが、手がけてみたい本物のCMはありますか。また、お二人はCMをビジネスの手段ではなく芸術作品であると捉えていますか。

小磯:本物のCMは難しいかな、と思います。CMに限らず、ビジネスとして他人のイメージを損なわないものをつくる、ということができる気がしないのです。でも『ReguReguマッチCM』のように、自由にバカバカしいことでもやらせてもらえるのであればできるかな、と思います。

──本作には血と雫の『夜のねむり』と『目覚めの夜』のミュージックビデオが収録されています。ReguReguはこれまでも血と雫のミュージックビデオを何作も手がけてきましたが、いつもどんな手順で製作を進めていくのですか。

カヨ:ミュージックビデオはとにかく何度も曲を聴くことから始めます。山際(英樹)さんのギターは表現力に満ちていて、聴いていると自然とさまざまな場面が心の中に浮かんできます。そのイメージを二人で話し合って、ひとつの話にまとめていく感じでつくっています。

小磯:血と雫では特に、音楽とストップモーションアニメが持つ〈魔術性〉が生まれたらと。この二つを合わせれば、何でもできるはずだもの。夜と繋がったり、好きな人を蘇らせることだって。

──血と雫というバンドに対してシンパシーを感じる部分、リスペクトする部分とはどんなところですか。

小磯:ロックやパンクの影響下にありながら、なぞることより、いま起きていることを、表現の中心にする演奏は、いつだって刺激的で、芸術と呼ばれる現象との境界線が曖昧な部分に、共感と敬意を抱いています。

──12月19日(水)から30日(日)までギャラリー犬養で開かれる個展はどんな内容になりそうですか。年末にギャラリー犬養で個展を開くのはもはや定例化しましたが、ReguReguにとってどんな意味があるのでしょうか。

カヨ:今年の個展では『パペトピアへようこそ』と題して、本当は目に見えないはずの心の中の楽園〈パペトピア〉を可視化しようと目論んでいます。人形たちが、自分と同じちいさな人形と戯れる可愛らしい姿をぜひ見ていただきたいです。

小磯:毎年年末にギャラリー犬養で展示をさせていただくようになってから、毎日の暮らしそのものが楽しい発見に満ちているように思えるようになりました。一年に一度区切りをつけることで、その年の自分たちの成長がわかる、そんな機会を与えてくれるギャラリー犬養に、とても感謝しています。

──最後に、『パペトピア』を鑑賞する人へメッセージをお願いします。

カヨ:人と人はわかり合えない、でもそれは悲しいことじゃない。3枚目の作品集『パペトピア』には、そんな思いをたくさん込めました。今日もやっぱりわかり合えなかったな、と思っても、夕陽は美しいし、〈パペトピア〉は楽しいのです。

小磯:純度だけは高いんで、きっと、効く人には効くはずです。つくりモノというより、生まれちゃったモノは、シャレになっていなくて面白いですよ。

© 有限会社ルーフトップ