政治性なき「お言葉」は可能か

不可視の天皇制(2)

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佐々木央

47NEWS編集部、共同通信編集委員

佐々木央

47NEWS編集部、共同通信編集委員

 本州の北辺・下北半島で育ちました。子どもや若者のこと、生きもの(動物園・水族館)について長く取材してきました。なので、軽視されたり無視されたりしがちな存在、人権のないものへの共感も少しはあります。 

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大嘗祭「悠紀殿供饌(ゆきでんきょうせん)の儀」のため、純白の祭服で悠紀殿に向かわれる天皇陛下(左)

 真っ暗な皇居・東御苑で、大嘗宮(だいじょうきゅう)は篝火(かがりび)に照らされ、わずかにぬくもりを感じさせた。その中で時折、かすかに白装束が揺らめく。この祭祀(さいし)の主人公のはずだった。

 厳しい冷え込みが足もとからはい上がり、体を芯まで凍えさせた。すぐ近くにいながら、闇が深く、何もかもはっきりしない。不意に「不可視の天皇」という言葉が頭に浮かんだ。

 29年の時を隔てて来秋、あのときと同じ形で大嘗祭が行われようとしている。(47NEWS編集部、共同通信編集委員佐々木央)

 天皇や天皇制の姿が私たちに不可視だとすれば、その理由の一つは、前回も触れた天皇や皇族に対する表現の自由の制限にあるかもしれない。

 制約は憲法から直接導かれる。

 憲法4条1項 天皇は、この憲法の定める国事に関する行為のみを行い、国政に関する権能を有しない。

 「国事」という言葉も使われなくなった。辞書は「国家、特に一国の政治に直接かかわる事柄」などと説明する。憲法は天皇に対し、自らが許す行為以外の国事行為を認めない。認められる国事行為は6条と7条に示され、法律の公布や栄典の授与といった儀礼的行為が並ぶ。

 「有しない」として否定された「国政に関する権能」とは、国政を決定する権限だけでなく「国政に対する影響を与える行為をする機能」(「注釈日本国憲法」上巻)を含み、ここから政治的発言も許されないという解釈になる。

 絶対的な権力を誇った戦前の天皇に対し、現憲法は天皇を政治的に無力化した。政治的な意思決定過程における権限を否定しただけでなく、口出しさえ認めない。

 政治的な発言を許さないだけなら、どうということもないのではないかという見方もあるかもしれない。人は政治的な枠組みだけで生きているわけではないのだから。

 しかし、公的な立場にある人が、何かを言ったり、行動したりすれば、本人が政治的な意図を持っていなくても、政治性を帯びることはあるし、受け取った側が政治的な文脈で読み取ることもあり得る。

 例として、今年8月の戦没者追悼式における「お言葉」を示したい。なお、この式に出席し発言することは、天皇という地位から導かれる「公的な行為」というカテゴリーで容認され、国事行為と同様に、非政治的・形式的・儀礼的なものでなければならないとされる。

 冒頭を引用する。

 ―本日、「戦没者を追悼し平和を祈念する日」に当たり、全国戦没者追悼式に臨み、さきの大戦において、かけがえのない命を失った数多くの人々とその遺族を思い、深い悲しみを新たにいたします―

 明治以降の天皇と戦争との関係は深く、重く、代替わりしてもなお、デリケートな問題を抱え込んでいる。それゆえ、その表現は練りに練られて、政治的な影響を無化しつつ、なお「日本国と日本国民統合の象徴」たるにふさわしい表現を求めてきたはずだ。

 言い換えれば、普通の市民が違和感なく受け入れられる言葉でなければならない。また、その言葉が何らかの行動を決意させるようなものであってはならない。しかし、全く無味乾燥であるわけにもいかない。国民に対する思いやりや慈愛といったものも感じさせる「陛下らしい」ものでなければならないだろう。

 そうした各方面に対する配慮の結果、解はたった一つに絞り込まれたかに見える。戦没者追悼式の「お言葉」は毎年、ほぼ同じ表現を踏襲する。それでも、受け手があえて政治的に読むことは可能だ。

 例えば「かけがえのない命を失った数多くの人々」という表現について。

 命は「奪われた」のだ。「失った」という自動詞に近い用語を選ぶことは、開戦と戦争遂行に大きな責任を持つ人たちを免罪してはいないか。

 あるいは、戦没者追悼式という場であるとしても、なぜ死者と遺族だけが「深い悲しみ」の対象なのかと問う人もいるかもしれない。戦争の惨禍は、生き延びた人たちの心身にも傷を残した。それを抱えながら、不条理な運命に立ち向かい、道を切り開いてきた。それは天皇自身の姿でもあろう。

 お言葉は次のように結ばれる。

 ―戦後の長きにわたる平和な歳月に思いを致しつつ、ここに過去を顧み、深い反省とともに、今後、戦争の惨禍が再び繰り返されぬことを切に願い、全国民と共に、戦陣に散り戦禍に倒れた人々に対し、心から追悼の意を表し、世界の平和とわが国の一層の発展を祈ります―

 「戦争の惨禍が再び繰り返されぬこと」を切に願うのは、憲法の恒久平和主義にもかなう。しかし、異論があるかもしれない。国家と国家の利害はいや応なく衝突する。どうしても平和的な解決に至らないとき、最終手段として戦争があり、それが歴史のリアリズムだという人もいるだろう。安保法制はそのような思想の上に成立したのではなかったか。

 いったん発せられた言葉は誰かに何かを訴えずにはおかない。どんなに厳密にコントロールしようとしても、受け手の中で言葉は自由な運動を始めるだろう。それゆえ、人間の言動から政治性を剥奪し尽くすことは困難だ。それは人間から言葉そのものを奪おうとすることに近い。

 法は天皇(もしくは天皇・皇族)から、人間の核心ともいうべきものをはぎとろうとしているように見える。そのような事態を直視せず、不可視のままにしていいのだろうか。=この項続く