【表面処理鋼板コイルセンター奥澤産業・小山設立50周年】〈「細かさ」への対応力が〝強み〟〉「自販力」「直需志向」貫く

 表面処理鋼板専門コイルセンターの奥澤産業・小山(本社・栃木県小山市萱橋)が設立50年の節目を迎えた。これまでの足跡を振り返り、これからの新たなあゆみを展望するとともに、立ち上げから半世紀にわたって経営をかじ取りしてきた先代・奥澤國男会長、その後継として次世代の指揮を執る奥澤健二社長の両氏に話を聞いた。

 奥澤産業・小山が設立したのが1968(昭和43)年12月9日。

 そもそもは、1932(昭和7)年に東京・三河島の地で奥澤藤蔵氏が創業した「奥澤切断工場」が母体であり、その後47年に「荒川シャーリング」、51年に「奥澤シャーリング」と社名を改称した。

 小山進出、次男の國男氏に「白羽の矢」

 当時の奥澤シャーリングはいわゆる下町の鋼材屋で、鉄板の在庫販売や切断のほか一般鋼材類も扱っていた。

 奥澤藤蔵氏には3人の息子と2人の娘がおり、年頃になると長男、次男、三男そして娘の配偶者が家業に携わるようになる。後に奥澤産業・小山を立ち上げた次男の國男氏も、大学を卒業し、大阪で鉄屋修業を終えると家業に戻った。

 藤蔵氏は早世し、妻のフミさんが後任に就いた。創業者の亡きあと母を中心に兄弟たちが結束し、家業を切り盛りするわけだが、小さな町工場に一族が多く存在するわけで「誰かが外に出なきゃ」との思いがつきまとった。そんな折、大手シャッターメーカーが小山に新工場を開設するとの情報が舞い込む。

 これが契機となり、次男の國男氏に白羽の矢が立つ。小山進出に向け、別法人の新会社を立ち上げ、その責任者に就くという話だ。なぜ支店や営業所(本社の出先機関)ではなく「会社」なのか。

 「規模の大小に関わらずその組織を束ねる長が、責任と権限を持って事業を運営するのが好ましいし、自主自立で収支を明確にするためにも個別採算のほうがいい」という基本的な考えが、一族の中にはあったようだ。

 この方針に基づいて、資本金700万円で新会社「奥澤シャーリング」を設立する。社名は同じだが、別会社である。ここから起算してあさっての12月9日で丸50年を迎える。

 コイルセンターに転身

 実際に小山の地に出たのは、設立から半年後の69年6月のこと。小山市粟宮に敷地450坪の敷地を確保し、180坪の建屋にはシャーリング2台と定尺在庫を置いた。

 このとき國男氏は弱冠25歳。事務所の2階を住まいとし、東京から連れてきたスタッフ2人と地元採用の運転手という布陣でのスタートだった。

 住まいは事務所の2階。右も左も分からぬ土地でゼロからの新規顧客開拓に奔走する國男氏の留守を妻がしっかりと預かり、経理や伝票作成などの事務作業をこなした。

 小山に赴いてまず驚いたのが「電話がない」こと。この時代、まだ回線が整備されておらず「(電話回線を)引いてもらうのに半年間も待たされた」。

 事務所を開設したはいいが電話が使えない。50メートルほど先にあるガソリンスタンドとベルでつなぎ、スタンドに電話が掛かるとベル鈴を鳴らして知らせてくれた。こんなやりとりが半年も続き、國男氏も「都内では考えられないこと。あれには本当に参った」と苦笑しながら振り返る。

 小山進出から4年後の73年6月に、現在の萱橋地区(小山第二工業団地)に拡張移転する。仕入れ競争力を強化するために製鉄メーカーの指定ヤード認定を受けるのが目的だったが、そのためにはコイル一次加工設備の導入が不可欠だった。

 翌年9月に大型レベラーラインを設置し「表面処理鋼板センター」を開設。コイルセンター事業への転身を果たす。当初は建材向けが中心だったが、家電向け長尺シートの注文も委託されるようになる。冷蔵庫の外板材のため高い品質・精度が要求され、コンマ台の薄物コイルは取り扱いにも繊細さが求められる。

 これに対応するため77年10月に業界初となるコンビネーションライン(レベラーとスリッターの複合一体設備)を導入。レベラーとスリッターの〝両肺体制〟を整え、建材と電機の両分野に適応できるようになったことで受注間口も広がり、その後の業容拡充の足掛かりとなった。

 得意ワザは〝一品一様〟

 81年には社名を現在の「奥澤産業」に改称。ちなみに東京の奥澤シャーリングは70年にコイルセンターを浦安鉄鋼団地内に開設しており、78年から明男氏が社長に就いていた。社名変更は両社が同じタイミングで実施し、現在の「奥澤産業・浦安」と「奥澤産業・小山」に至る。今では社長も、浦安が明男氏から公明氏へ、小山が國男氏から健二氏へと世代交代を果たしている。

 奥澤産業・小山では、平成バブル期の好況を背景にミニレベラー、大型レベラー、大型スリッターを矢継ぎ早に設置する。しかし、バブル崩壊後の不況期に、電機産業では安いコストを求めて量産品の製造を次々と海外に移管。国内には一品一様の小ロット短納期品だけが残り、こうした受注構造の変化に対応しなければコイルセンターとして生き残ることが難しくなった。

 奥澤産業・小山にとっても量産品の海外移管は痛手だったが、元来「細かい一品一様加工」はコイルセンター事業を始めたときからの〝得意ワザ〟であり、いわばDNAでもある。國男氏によれば「うちは北関東エリアでのコイルセンター進出が後発。域内のまとまった商権はすでに先発組が手掛けており、細かい注文をいただき丁寧にこなしながら信用を蓄積していった」。

 國男氏は、小山に出たときから「直需志向」と「自販(プロパー販売)」に徹し、栃木や群馬を中心に1軒1軒を当たった。「もともと口八丁手八丁の営業が得意じゃなくて…」と言う國男氏は「良い品物を期日指定通りに納品する」ことを愚直に実践し、その積み重ねで顧客に「奥澤の品物は安心」「奥澤は納期が正確」という信頼を得ることを心掛けた。

 その努力がマーケットに浸透して顧客の数も漸増。現在では常時350社以上の納入先を持つ。取引口座はざっと500件にのぼる。

 建材向けを中心に足元の月間販売量は6500~8千トン、二次加工も含めた総加工量は月産8500~1万トン。今年10月には創業以来初の月間販売量8千トン、総加工量1万トンを達成した。顧客に搬入するケース数は1日あたり500~600で、毎月の加工アイテム数は5千種類以上を数えると言う。

 2代目・健二氏がかじ取り

 「細かさこそがわが社の強み」とし、50年の歳月をかける中で現場も営業も配送部隊も「細かい加工・販売・納入が〝うちらしさ〟」との意識も根づいた。

 かつては「あまりの細かさに現場が悲鳴を上げ『こんな厳しいモノはできない』とか『なんで手離れのいい定尺品をやらないんだ』といった文句も言われた」らしい。しかし「これはうちにしかできないんだ、これでメシを喰っていくんだ」と諭しながら効率化を考え、設備を改良工夫し、構内物流も改善しながら、細かい加工注文に対応する今のスタイルを構築してきた。

 細かい加工は段取りや処理などの手間暇が掛かり、いくら手慣れているとは言え専用レベラーの平均加工量はライン能力の50%程度。加工量は無塗油レベラーの6割程度だ。

 奥澤産業・小山にとっては、最初から「これが当たり前」だからノウハウもあるが「今からうちの真似しようという同業他社さんはおそらくいないんじゃないかな」。〝細かさ〟への対応は、一朝一夕でできるものではないということだろう。

 3年前から2代目として経営のかじを取る奥澤健二社長も「細かさへの対応力がうちの特色」であり「顧客からも大いに期待されている機能」と自覚する。

 この独自の強みに〝磨き〟をかけながら、先代である父・國男会長がこだわり続けた「直需をベースとした自販力の強化」を全社一丸で推し進め「月間販売量8千トン(年間8万トン以上)」を定量目標に掲げる。

 販売強化の一環で「営業所の新設」も将来に向けた検討テーマだ。営業エリアが東日本全域に広がり、東北や新潟、北陸での顧客層も増えつつある。成熟した国内マーケットで販売力を高めるために拠点展開し、地域に密着した迅速できめ細かなサービスを提供できればと考える。

 併行して「筋肉質な企業基盤づくり」にも取り組む。社内の管理体制を改善し、個々のスキルアップに向けた人材育成や「働き方改革」に則った労務シフトの見直しなども推し進めていくことで「顧客満足度はもちろん、社員一人ひとりのやりがいを高めていきたい」と語気を強める。(太田 一郎)

インタビュー/奥澤國男会長、奥澤健二社長/「必要な存在であり続けるために/奥澤会長「おかげさまの気持ち忘れず」/奥澤社長「品質、納期ニーズを全う」

――設立50周年を迎えて。

会長「こうして節目を迎えることができるのも、長きにわたる取引先様・お客様からのご支援、ご厚情のおかげ。心から感謝するとともに、苦楽を共にしてきた全社員の精励に対し、労をねぎらいたい」

奥澤産業小山・奥澤國男会長

 「25歳で小山に赴いて以来、表面処理鋼板をはじめ薄板加工品を必要とするお客様に対し『品質・納期でお役に立つ』ことを最優先に日々研鑽を積んできました。その実現に際し、製鉄メーカーや商社の協力も賜りました。この場を借り、改めて御礼申し上げます」

――会長は立ち上げから現在までの歴史を知り、ゼロから基盤づくりをけん引してきました。半世紀の中では苦労や危機もあったのでは。

会長「メーカーの指定ヤード認定を受けるためにコイルセンター(CC)に転身し、大型レベラーラインを導入したと同時に好景気が到来。試運転する間もなく注文がどんどん入り、短期間でもうかり設備投資に充てた借入金もすぐに回収できました。若気の至りで少々浮かれていたのでしょう、必要以上に仕入れを促進したはいいがオイルショックで景気が一気に後退。まったく売れなくなり、コイルは山積みされ、資金繰りにも窮しました」

 「何とかやり繰りして最悪の事態は切り抜けましたが、この時の教訓は『一過性(目先)の儲けに走らず、如何に安定かつ持続的に収益を確保するか』を心掛けること。資金繰りの重要性は、今も自分への戒めであり、後継者にも事あるごとに口煩く諭しています」

――奥澤健二社長は3年前に2代目に就任しました。これからの新たな歴史づくりをどうかじ取りしますか。

社長「表面処理鋼板の専門CCとして地に足つけて泥臭く動きまわり、顧客の求める品質・納期にきめ細かく対応しながら日々堅実経営を全うすることが、次の60年、70年…につながっていくと考えています」

 「塗油材、無塗油材の切板およびフープ加工を手掛け、無塗油材専用ラインを有し、手のひらサイズの小物も嫌がらずに即納する体制こそがうちの強みであり機能。設立以来の『自販』『直需志向』にこだわりながら販売力を磨いていきたい。その一環として業務ごとの労務シフトの見直しや新たな営業拠点展開なども検討していくつもりです」

――最後に一言ずつ。

会長「『おかげさまで』の精神を忘れず、小ロット多品種・短納期対応力を活路とし、これまでに培った品質・技術力とコスト競争力を高め、顧客にとって『必要な存在』であり続けていきます」

社長「『困ったときは奥澤産業・小山に頼めば何とかなる』と評価していただけるよう、付加価値向上とサービス強化に努めていきます。あわせてグループである奥澤産業・浦安とも協力・連携し、切磋琢磨しながら総合力で顧客ニーズを全うしていきたい」

奥澤産業小山・奥澤健二社長

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