米国が封印、日系移民を砂漠の強制収容所に隔離した歴史…財産や住居をすべて没収

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マンザナー強制収容所(「Wikipedia」より)

「当時、日系一世はアメリカ国籍を持つことができませんでした。アメリカで生まれた私と幼い妹は国籍を与えられていたので、日系一世の両親とは引き離され、違う収容所に送られたのです」

 陶器ブランド・ミカサの創業者であり、音響機器メーカー・ケンウッドUSA元社長のジョージ・荒谷氏のご夫人、サカエ氏からこのような話を伺ったのは、ロサンゼルス日本総領事公邸で開かれた食事会のことでした。その当時、僕はロサンゼルス・フィルハーモニックの副指揮者で、このような場所に呼ばれる機会も多かったのですが、その時の食事会での会話は、僕と妻、そして総領事夫妻以外は皆さん収容所経験者だったこともあり、とても印象深く覚えています。

 ワシントン州出身のサカエ氏は、カリフォルニア州出身のジョージ氏と、アリゾナ州の日系人収容所で出会い、結婚されました。

 今からちょうど77年前の1941年12月8日、ハワイ島の真珠湾を日本が攻撃。日本は第二次世界大戦に参戦し、日本本土の生活が大きく変わったのですが、アメリカで生活をしていた日系人にとっては、敵国人としてアメリカで生活をしているわけで、これまで異国で築いてきた生活が根底からひっくり返るような出来事だったのです。

 1885年1月、明治政府公認により、最初の日系移民944人がハワイ島に渡り、サトウキビ、パイナップル畑で重労働を課せられていたことは、年末年始に日本人でごった返すワイキキビーチから想像もできませんが、クルマで1時間も走れば、日系人たちがお金を少しずつ出し合ってつくったお寺が点在しています。

 日系人の方々から話を伺うと、「当時のサトウキビは品種改良以前の物だったので、とげがあったんですよ。炎天下に手を血だらけにしながら、祖父母や両親は朝から晩までサトウキビ畑の中で働いていました」と、遠くを見つめるように話を始められるものでした。

●米国籍を持っている子供でも強制収容所に隔離

 最初のハワイ移民から5年後の1890年。いよいよアメリカ本土に日本人の集団移民が始まります。彼らは、アメリカの西部開発による鉄道路線拡張の労働者として、劣悪な条件の下、鉄道の線路を敷いていったのです。ちなみに、アブラハム・リンカーン大統領が「奴隷解放宣言」を行ってから30年近くたっていましたが、まだまだ有色人種に対する差別は根強く、1893年にはサンフランシスコ教育委員会は、日系人指定だった公立学校について、有色人種の入学を拒否する決議を採択したほどでした。当時の日本総領事・珍田捨巳氏の尽力により、その後撤回されましたが、そのくらい人種差別が激しかったのです。

 それでも、日系人たちは日本人の美徳でもある勤勉さをもって努力し、家族を持ち、アメリカ生まれの子供たちを育てながら、生活を安定させていきます。そのようなときに起こったのが、日本による真珠湾攻撃です。

 アメリカ人のなかにも、敵の日本人と一緒の場所で生活することに不安を覚える人たちも増えてきて、日本人排斥運動も盛んになるなかで、真珠湾攻撃から2カ月後、とうとうフランクリン・ルーズベルト大統領による「大統領令9066号」が発令され、「日系人保護」という名目で、西海岸地域に住む日系人全員、ハワイの日系人のなかで主だった人々11万人が、強制収容所に送られることになります。

 そんななか、冒頭で触れたサカエ氏のような、幼い子供と両親が引き離されるようなことも普通に行われていたのです。第二次世界大戦中の日本人強制収容所を理解するのに大切な部分は、アメリカ国籍を持っていても、日系人であるというだけで財産や住居、自由を没収されて、強制収容所に隔離されたということです。

 両親は、貧しいながらも生き生きと働き、家の中ではアメリカ国籍を持った子供たちが笑顔で遊んでいる。そんな小さな幸せが、ある日突然、たった数日の猶予だけで、今住んでいる場所から立ち退くように命令され、苦労して手に入れた財産も、多くを失うことになったのです。

●米国民にも知られていなかった事実

 僕は、収容所のひとつであるマンザナー強制収容所の跡地を訪れたことがあります。場所はカリフォルニア州ですが、砂漠のど真ん中でした。カリフォルニア州というのは、2つの顔を持っていて、西側は美しい海岸線や豊かな農場が広がっているのですが、4000メートル級の山々がそそり立つシエラネバダ山脈の向こうは、灼熱のモハーヴェ砂漠が広がっています。一度、飛行機で上空から、太平洋側で生まれた雲が、高い山脈を越えることができずにたまっているのを見て驚いたことがありますが、雨もめったに降らないそんな不毛の砂漠に収容所があるのです。そして、その周りには鉄柵と監視塔が並んでいました。

 マンザナー強制収容所は、まがりなりにもアメリカ国籍を持った子供たちもたくさん収容していたので、アメリカ合衆国としても捕虜収容所とは位置づけておらず、ある程度の自由は許されていたので、逃亡できたかもしれません。ただ、運よく逃げ出せたとしても、一昼夜も過酷な砂漠を歩いて、やっと小さな村に行き着くような場所です。現実的には逃げることはできませんでした。この状況は終戦まで続くわけですが、やはり収容所で亡くなる方々もいました。その方々のための慰霊塔が、これまで自由な生活をしていた豊かな土地と、収容所のある砂漠を隔てているシエラネバダ山脈を背景に立っている光景は、本当に悲しく寂しいものでした。

 1988年になってようやく、当時のロナルド・レーガン大統領によって謝罪されるまで、この事実はアメリカ国民にもあまり知られていませんでした。今もなお、知らないアメリカ人も多いですし、これを差別された負の歴史として、収容所を経験した日系人自身が話したがらないことも多かったのです。そして、同じく敵国であったドイツ、イタリア系移民には、このような処遇はなかったことからも、当時の日本人の悔しさを理解するのです。

 僕は、戦争を経験したことのない世代です。世界のさまざまな国で指揮をしてきましたが、時には、日本との間に残念な歴史がある国で仕事をすることもあります。そんななかでいつも思うのは、僕は純粋に音楽だけをやっているつもりでも、相手は僕を通じて日本を見ているという事実です。10年くらい前になりますが、僕は当時指揮者を務めていたフィンランドのオーケストラの中国ツアーに同行する機会がありました。当時、日本と中国の関係は少し難しい時期で、フィンランドと中国の友好を願う演奏会を、日本人の僕が指揮をすることに実は不安を持っていました。そこで、現地の市のスタッフに自分の気持ちを、思い切ってぶつけてみたのです。同世代の男性でしたが、彼の答えは、「両国には、残念な歴史があった。でも今は、それを我々が乗り越えていくことが大切だと思います」というもので、僕は涙が出そうになりながら、彼と強く握手をしました。そして、どんな国であれ、これからも全力で指揮をしようと思ったのでした。

 音楽には、すべての人々の心をひとつにする力があります。これについては、次回の連載で『第九』をテーマに書かせていただこうと思います。
(文=篠崎靖男/指揮者)