働かずに生きてやる。彼に裏切られて人生最悪の日に下した、34歳・独身女の無謀な決断

©東京カレンダー株式会社

34歳、国立大卒の美しき才女、高木帆希(たかぎ・ほまれ)

父親は作家の傍らコメンテーターとしても人気の有名人で、「家事手伝い」という名の「無業」で10年もの間、ぬくぬくと過ごしてきた帆希。

そんな働かずとも裕福に暮らしてきた彼女に、突如降りかかった「父の死」

帆希に遺された父の財産は、たったの100万円。

遺言状によって明らかになった現実に、戸惑いを隠せない帆希……。

再び「社会」と向き合わざるを得なくなった帆希は、5年の付き合いになる年下の彼氏・牧野涼輔の家に転がりこもうとするのだが…

「…出張で葬儀にも行けなくて…ごめんね…帆希。大丈夫?」

「ええ、まあ、何とか……」

私は、西麻布にあるワインバー『goblin』で、2歳年下の恋人・牧野涼輔と会っていた。

涼輔は千代田区に本社がある財閥系不動産会社の営業部の主任で、父親は外交官、母親は専業主婦の一人息子だ。

涼輔とは、5年ほど前に父の取材に同行したことがきっかけで知り合った。

取材当日、出版社の担当編集者さんが急病で来られないからと、無理やり父から呼び出された私は、「秘書」の真似事をする羽目になった。

いつもなら絶対に断っているような出来事なのに、何故かあの時の私は躊躇うことなく父のお願いを聞いていたのだ。

―きっと、涼輔に出会う為に神様が私の背中を押したんだろう。

父の執拗な質問の数々に、丁寧かつ的確に答えていく涼輔の姿は今でもハッキリと覚えている。

奥二重の切れ長な瞳に美しい鼻筋、薄い唇から発せられる言葉は、上品でユーモアに溢れていた。父の追加取材で何度か連絡を取り合い、いつの間にか、私は涼輔と食事に行くようになっていた。

「結婚を前提にお付き合いしたい」

涼輔からそう言われたのは、出会ってから2ヵ月過ぎた頃だった。

―あれから…5年……。

初めは、週に3回ほど会っていた私と涼輔だが、1年、2年と重ねていく度、少しずつお互いの生活リズムを大切にしようと、無理のない距離感を保っていた。

結婚願望も特になかった私は、お互い自由なこの関係がいつまでも続けばいいと思っていたので、別に苦でもなんでもなかった。

忙しくしている涼輔の様子は、SNSでチェックできるし、「元気でいればそれでいい」…そう思っていたが……父が亡くなった今、生きていく為には涼輔の支えが必要だと、私は感じていた。

「あのね、涼ちゃん…大事な話があって……」

私は思い切って、涼輔にプロポーズをしようと決意し、ここへやってきていた。

5年も待たせてしまったけれど、父の死をきっかけに、「結婚」という新しい人生の一歩を踏み出してもいいんじゃないか…そう思って今から、プロポーズの言葉を言おうとした瞬間だった。

「僕も…今日、ちゃんと伝えたくて……」

まっすぐに私を見つめる涼輔。その決意の眼差しに私は、確信していた。

涼輔からプロポーズされるんだと―。

プロポーズと思ってた帆希。だが、彼の口から発せられた意外な言葉とは!?

年下の恋人の苦悩と本音

「別れたほうがいいと思うんだ…僕たち」

「………え?」

私は、一瞬、涼輔が何を言っているのか理解できなかった。

私の耳に入ってくるはずの言葉「結婚しよう」でなかったこと。更に、全く予想すらしていなかった「別れよう」の言葉に、私は瞬きすることも呼吸することすら忘れそうになるのだった。

「涼ちゃん、それって…どういう意味?」

全く涼輔の発する言葉の意味が解らなかった。

「私…お父さん亡くしたばかり…だよ?」

―正直、今の私に向かって言う言葉じゃないよね? あり得ないよね?

心の声をグッとこらえて私は涼輔の次の言葉を待っていた。

―冗談だって言って。今なら許すから。

「……ごめん……ずっと前から無理だなって思ってたんだ…ごめん」

「ずっと前からって…」

「僕たちを繋いでた高木先生も亡くなったし…こんな曖昧な関係もちゃんとした方がいいと思うんだよね」

「ちょっと待って…ずっと前に言ってくれたじゃない? 結婚を前提にって…あれ、嘘だったの?」

涼輔の顔が曇る。こんなこと言いたいわけじゃないのに…私は、涼輔に必死にすがっていた。

「帆希は頭もいいし、会うといつも楽しい。この5年本当にそうだった。でも…ひとりになると空しくなるんだ」

「どうして?」

「…帆希といても生産性がないんだよ…帆希の止まった時間に付き合ってる暇は…僕にはない…ごめん…」

涼輔の本音に、私は心が砕けそうになった。

―生産性のない私……。

言われてみればこの5年、腐れ縁のように、私と涼輔は関係を続けてきた…。

変化のない平穏な関係が心地よかったのは、私だけだった…。恥ずかしさと情けなさが身体中を駆け巡っていく。

目の前の涼輔は、無言で訴えかけている。

―僕の気持ちを察して、僕を手放してくれ、と。

「男と女じゃなく、これからは人として、時々会えたらと思うんだ…力になれることがあれば…」

涼輔の言葉がどんどん遠くなっていく。もっともらしい綺麗な別れの言葉の数々…いつの間に、こんなに交渉がうまくなったんだろう。

ー“力になれることがあれば”なんて言ってくれるなら、今すぐ結婚して私を養って!それが嫌ならお金をちょうだい!!

私は、心の中で、口が裂けても言わないようなみっともない気持ちを大声で叫んでいたのだった―。

心というものは、不思議なものだ。
私は今、心が不感症になっていた。
父の死、遺言状…そして、恋人からの突然の別れ……。

何年もの間、穏やかに平和な暮らしをしていた私にとって、ここ最近、あまりにも衝撃的なことが次々と起こりすぎて…現実に心が置いてきぼりになっていた。

涼輔と別れて、一週間が過ぎた。

1週間前までは2ヵ月会っていなくても平気だったのに……今は、涼輔がいつどこで誰と会っているのか気になって仕方がない。

いつも以上にSNSをチェックするが、涼輔の投稿はなかった。

―きっと涼輔も私と同じくらい辛い想いをしているはずだ。

そう思うことで自分自身の心を宥めていた私に、更なる衝撃の事実を突きつけてくる人物がいた―。

父の担当編集者が涼輔のあり得ない裏切りを暴露

砕かれる帆希の心、その先には…

「映像化されていない先生の作品を、ぜひ映画化したいって。いくつもオファー頂いているんですよ」

この日は、私と涼輔が出会うきっかけを間接的に作った大手出版社の編集者である坂井さんが、うちにやってきた。

昨年、同業者と結婚した坂井さんは、8ヵ月になる大きなお腹を時々優しく撫でながら私と話をしていた。

その仕草ひとつひとつが、キラキラと眩しくて…尊かった。私にはないものを彼女は持っている。何とも言えないダークグレーな気分が、蜘蛛の巣のように張り巡らされていく。

「そう言えば、先生の取材で5年ほど前、お世話になった…不動産会社の…牧野さんでしたっけ? お見掛けしたんですよ~意外な場所で」

一通り父の思い出話が終わった頃、坂井さんから涼輔の名前が出て、私は驚きを隠せなかった。

私と涼輔が付き合っていたことすら知らない坂井さんは、屈託のない笑顔で話を続けるのだった。

「私の通ってる産婦人科に、付き添いでいらしてたみたいだったんで…話かけたんです。牧野さん、授かり婚みたいですよ!お相手がかなりお若い方でびっくりしたんですけどね」

―授かり婚…相手はかなり年下……。

「そうですか…お幸せそうでなによりです」

私は、満面の笑顔を坂井さんに向けていた。

涼輔は、私が「家事手伝い」として優雅な時間を過ごしていた頃、婚活に励んでいたのだ。私は何年もの間、そのことに気づくことも出来なかった。涼輔のことを見ていなかったのだ。

愛していた人に裏切られて悲しい。それは確かに悲しくて悔しくて、今からでも涼輔の会社に乗り込んで、「この男は最低の人間です」と大騒ぎしたい。

若い妊婦の妻らしき小娘に「この泥棒猫!」なんて昼ドラみたいに罵っても罰はあたらないはずだ。

だけど私は絶対に、しない。
この話の事実確認もしない。
何が真実であろうと、私と涼輔は別れたことに変わりない。
そして、涼輔の心に、もう、私はいない。
いない、のだ―。

―私……もしかして…人生のどん底!?

そう思うと、何でもやれそうな気がしてきた。

今の私のままで、とことん生きてやる。この10年、無駄なことはなかったと思うために生きるのだ。

私は私を見捨てたりしない。誰が私を見捨てようと、見下そうと、私くらい私を大事にしてやりたい。

34歳、国立大卒、独身、無職。

『働かずしていかに生きるか』

人生、最低最悪の日に、生きる目標を私はやっと見つけたのだった。

▶Next:12月16日 日曜更新予定
傷心の帆希は、兄の家族のもとへ転がり込む。何とか寄生出来ないかと試みる帆希の前に立ちはだかるものとは…。