皇族に「黙れ」というメディアの責務 不可視の天皇制(3)

By 佐々木央

三笠宮家の長男寛仁さま

 大嘗祭(だいじょうさい)は“2部制”で行われる。夕刻から深夜までの前半は「悠紀殿供饌(ゆきでんきょうせん)の儀」、未明に行われる後半は「主基殿(すきでん)供饌の儀」だ。28年前のその日、私の仕事の一つは「1部」と「2部」の間に、大嘗宮から出てきた参列者の声を拾うことだった。

 子どものころ、自分にとって最高のヒーローだった王貞治さんに会えた。囲み取材に対し「ちょっと暗くてよく見えなかったですね。陛下の姿も見えませんでした」と淡々と応じた。率直な王さんは、やっぱりかっこよかった。

 映像取材が許されたが、ストロボ使用は禁じられた。指定の場所から撮影した代表取材のカメラマンは「肉眼では天皇陛下の姿はほとんど見えなかった」と話した。前回掲載した写真は、超高感度フィルムと大口径の望遠レンズを使い、さらにスローシャッターを切って撮影したという。取材側としては最もいい位置にいたはずのカメラマンも、やはり見えなかったのだ。(47NEWS編集部、佐々木央)

 天皇制が不可視である理由として、前回、天皇・皇族の表現の自由が法的に制限されていることを挙げた。だが、法制度に帰責するだけでは足りない。一般に可視化されるべき領域が不可視だとしたら、発信者とメディアの両方のあり方も問われる。

 例えば、河野太郎外相は11日の記者会見で、北方領土に関するロシアとの交渉について聞かれ「次の質問どうぞ」と連発して無視した。外務省記者クラブは「国民に対する説明責任を果たしているのかどうか、疑問を禁じ得ない。誠実な会見対応を求める」と申し入れた。だが「説明責任」とか「誠実な対応」といった尺度だけで評価可能な事態だろうか。「疑問を禁じ得ない」とは、また、ずいぶん弱腰ではないか。

 あの傲岸不遜な態度は、人間としての大切な部分が損なわれているのではないかとさえ感じさせた。記者たちが組織の一員として、職務としてそこにいるとしても、人の心はある。そのことへの一片の配慮も感じられなかった。

 そういう相手に、記者側が対抗するとしたら、どんな方法があり得るだろうか。少なくとも人間としての怒りを表現するべきではなかったか。公憤より先に、私的な感情があってもいいし、それこそが人と人が通じ合う最初の回路だと思う。

 さて、天皇・皇族に関わるメディアの報道姿勢はどうなっているのか。その根底に法制度やそれに基づく上滑りの論理でなく、人としての想像力や制度を疑う知性は働いているだろうか。

 今回の会見報道に接して真っ先に思い出したのは、2005年前後に皇室典範の改正目前まで進んだ「女性天皇」容認問題だった。皇族の一人がそれに関する所見を新聞や雑誌で公表した。それを受けて2006年2月2日付朝刊で朝日新聞は「寛仁(ともひと)さま 発言はもう控えては」というタイトルの社説を掲げた。

 社説は彼の発言の趣旨を「初代の神武天皇から連綿と男系が続いているからこそ皇統は貴重なのだ。戦後に皇籍を離れた元皇族を復帰させるなどして男系維持を図るべきだ」と要約する。ここでは深入りしないが、女性天皇を認める場合、「男系」を維持するのか、「女系天皇」まで認めるのかが論点となっていた。

 ところが社説は、彼の立論の内容には一切立ち入らず、発言行為そのものを否として、次のように批判した。結論部分を引用する。

 ―寛仁さまの発言は、皇族として守るべき一線を超えているように思う…憲法上、天皇は国政にかかわれない。皇位継承資格を持つ皇族も同じだ…天皇制をどのようなかたちで続けるかは国の基本にかかわることで、政治とは切り離せない…たとえ寛仁さまにその意図がなくても発言が政治的に利用される恐れがある。それだけ皇族の影響力は強いのだ…寛仁さまひとりが発言を続ければ、それが皇室の総意と誤解されかねない。そろそろ発言を控えてはいかがだろうか(…は省略部分)―

 朝日新聞は2日後の2月4日付社説で同じテーマを再論する。皇族は発言を控えるべきだという基本的な立場は維持しつつ、こう結んでいる。

 ―(2日前の)社説に対して「言論機関が皇族の言論を封じるのか」という反論も寄せられた。しかし、皇族だからこその言論のルールがある。それを指摘するのはむしろ言論機関の責務ではないか。ここはぜひ冷静な議論を望みたい―

 自らの論旨の正当性を主張するために、メディアの責任を強調している。皇族に「法の原則に従って黙れ」と言うのは言論機関の責務であると。その結果、皇族の不自由とメディアの自由のアンバランスが、かえってくっきりと刻印される。

 メディアもいまある法や制度を無視することはできない。ただ、それらを論じる自由は留保し、必要に応じて検証しなければならないはずだ。なぜなら、法の淵源が多くの場合、多数者や強者の意思にあり、少数者や弱者に対する差別性・抑圧性を完全に払拭することは困難だからだ。

 らい予防法の隔離政策は長く放置された。旧優生保護法下の強制不妊手術の不当性は、最近、ようやく社会に認知された。これらについて、メディアには重い責任がある。言うまでもないが、私も責任を免れない。

 法の不正義に気づくためには、偏見を捨てて当事者の声に耳を傾けること、そして人としての素朴な怒りや疑問、違和感を捨てないことが大切になると思う。

 朝日新聞の最初の社説は「天皇制をどのようなかたちで続けるかは国の基本にかかわることで、政治とは切り離せない」と述べる。だが、天皇制は果たして「国の基本」なのか。それは戦前の「国体」とか「国柄」といった言葉とどう違うのか。政治から切り離したはずの天皇制が「政治とは切り離せない」とは、論理が転倒していないか。そして、同じ人間でありながら、天皇・皇族に全き人権が保障されないのはなぜなのか。

 「法に書いてある」というだけでは、メディアの責務を果たしたとはいえないだろう。
=この項続く

不可視の天皇制(8)脱出の自由

不可視の天皇制(7)血のカリスマ

不可視の天皇制(6)憲法1条の不思議

不可視の天皇制(5)誕生日の処刑

不可視の天皇制(4)結婚の条件

不可視の天皇制(3)沈黙の強制

不可視の天皇制(2)お言葉の政治性

不可視の天皇制(1)皇室報道の倒錯

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