3億円事件50年、捜査員の心残りとは 記者の取材メモから浮かび上がるもの

 戦後の事件史に残る未解決事件といえば、3億円事件を思い浮かべる人も多いのではないだろうか。「白バイ」「発炎筒」「不審な車」―。多くの目撃情報や遺留品があり、解決には時間がかからないと思われたこの事件が未解決に終わったのはなぜか。1968年12月に東京都府中市で発生してから50年。当時警視庁の取材を担当した共同通信の記者が残したメモや、元捜査員の言葉から振り返った。

共同通信の警視庁担当記者が残した取材メモ(右)など

 半世紀の年月を経て、茶色く変色した記者の「三億円強奪事件資料」。古びた封筒から取り出すと、ほこりっぽく、かびたようなにおいが立ち上った。経年劣化で破れかけた表紙をめくると、丁寧に手書きされた「わが国の犯罪史上最高額」「異例のマンモス捜査体制」などの文字。大卒者の初任給で比較すると、現在の価値で20億円に相当するともされた事件の姿が浮かび上がった。

 事件が発生したのは、1968年12月10日午前9時20分ごろだった。場所は高い塀に囲まれた府中刑務所の北側の道路。白バイ警官を装った男が、日本信託銀行(現三菱UFJ信託銀行)国分寺支店の現金輸送車に停車を命じる。「爆弾が仕掛けてある」と言って、車体の下をのぞき込んだ際にダイナマイトに見せかけた発炎筒を発火。運転していた行員らに降りるよう指示した後、東京芝浦電気(現東芝)府中工場従業員約4500人分のボーナス約3億円ごと車を乗り去った。

 警視庁は約1時間後、1キロほど離れた国分寺市の雑木林に乗り捨てられていた車を発見したが、現金計約3億円が入ったジュラルミンケース三つが無くなっていた。約4カ月後には空になったケースや現金輸送車から乗り換えた乗用車も見つかった。

 「10日9時15分 近くの主婦が白バイ目撃」「9時25分 フル・スピードで右折する黒のセドリック(輸送車)を見た」。資料には、事件前後の犯人とみられる人物や車に関する証言が、時間を追うように細かく記録されている。

 目撃者の一覧表には「ワイパーがかけっぱなしの車。近くの主婦ら三人証言」との記載がある。事件から50年を前にした今年12月6日、30代の記者が現場を歩くと、かつて同様の証言を警察にしたという女性(85)から話を聞くことができた。

 「レインコートのようなものがドアに挟まったまま。雨上がりで誰も乗っていないのにワイパーも動いていて不自然だと思った」と、今も当時の状況を生々しく語り、「こんな大きな事件につながるなんて思いもしていなかった」と話してくれた。

 資料は犯人像について、偽の白バイやダイナマイト発炎筒を準備するなど、周到な計画性がうかがえたことから「高卒以上、大卒かも知れない」「土地カンは相当なもの」などと分析した。白昼の大胆な行動に「ウッ積した自己顕示欲がある」などとも思考を巡らせていた。

 「当初は簡単に犯人を挙げられると思っていた」。事件の発生直後から、主に鑑識活動に従事した老齢の元捜査員は、捜査現場の雰囲気を明かす。

 延べ17万人以上の捜査員を投入した事件の公訴時効が成立したのは7年後の75年12月。目撃証言から作成した警察官姿のモンタージュ写真が公表されるなどしたが、元捜査員は「『人に聴く捜査』ばかりで、鑑識活動で情報を得る『物に聴く捜査』に力を入れなかった」と悔しさをにじませた。

3億円事件で作成された警察官姿のモンタージュ写真

 元捜査員が今でも心残りだと漏らすのは、白バイに偽装する塗装をした後、乾き具合を確認した際に付着したとみられる指紋だ。捜査の責任者に「この指紋に絞って捜査するべきだ」と主張したが、受け入れられることはなかった。

 後には映画や小説などの題材となり、人々の記憶に刻まれていった世紀の大事件。元捜査員は「人はうそをつく。物はうそをつかない。人と物から聴く捜査が両輪となって回っていくことが今でも必要だ」と変わらぬ持論を口にした。(共同通信・社会部=渡辺健太郎、武知司)

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