臣民――正輝、バンザイ――保久原淳次ジョージ・原作 中田みちよ・古川恵子共訳=(20)

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 1900年、山東省で、義和団(Boxers)が中国に滞在する外国人に対して内乱をおこし、北京の諸国公使館を包囲した。日本は速やかに、そして密かに(中国の一部を支配しコントロールしようと企んでいる諸強国を刺激しないよう)当地にいた半分の隊で騒ぎを鎮圧し、平常にもどした。
 このとき、日本人は自国こそこの地方の安定を保ち、自分たちの意向がかなえられるアジアの強国なのだと認識した。

 こんなふうに激動の真っただ中にある1904年(明治37年)11月21日、沖縄の新城に住む保久原忠道とタルの間に次男が誕生し、正輝と名をつけられ、島に住む29万5000人の一員になった。長男哲夫は4才になっていた。日本では戦勝の記事が大々的に報じられ、国民が鼓舞されていたころである。
 正式に占領していたわけではないが、日本は中国に戦勝して以来、10年間、朝鮮を支配してきた。しかし、中国は政治的工作により他国が戦うためにその国と同盟させられたり、後にその同盟国と戦ったり、時には別の国と直接戦闘を交えることもあり、常に強国の餌食となっていた。その例としてロシアと日本が挙げられる。
 20世紀初め、ロシアの満州に対する権利主張をくつがえすために、日本は英国の支持を得ようとしていた。満州は特にロシアと日本には重要なところだった。もちろん中国にとってもである。満州は中国の東北に位置している。西側に残りの中国、南は渤海と朝鮮海に面し、南東は朝鮮、東と北はロシアとの国境にあたる位置だ。満州の北と東の日本海までを抱きかかえるような位置にあるロシアは、南北の幅広い地域をかかえることになる。ロシアはちょうどこの南堺にある所に、極東の軍事に備えるべくウラジオストク港をもっている。満州占領はこの港と両側の広大なロシアを結ぶ重大な役割をはたすはずだった。
 その地域の日本海を挟んだ反対側に日本列島のいちばん北の北海道があった。ロシアにとって満州統治は、広大な地の極東の保全維持にかかせない要衝だったのだ。日本側の見方からすると、満州は朝鮮のつづきのような国だった。満州の占領はアジア大陸に日本国の存在を示す機会だと考えられた。
 1900年の義和団の乱のおり、ロシアはこの機を利用し全満州を軍事力で占領し、北京で行われた国際講和連盟に参加せず、中国が二つ条件をうけいれれば撤退するといいわたした。そのひとつは満州をロシアの管理下におくということだった。これに対し日本は強く反発し、ロシアは満州を支配する策略を放棄した。ロシアのこの地における持続的滞在は日本の支配力を抑え、朝鮮への日本侵略を阻止するという意味があった。
 ロシアは1902年4月満州から順次に軍を撤収することを条約した。第一回目の撤収は条約どおりおこなわれたが、二回目は撤収するどころか、その地方の軍事力を引き上げる姿勢を見せたのである。1903年10月、前年にロシア、日本、英国で交わされた条約を破棄し、日本に対し非常に厳しい条件を提案してきた。そのなかには日本に開戦を布告するような条件もあった。
 1904年1月、日本は最後通告を行ない、ロシアがそれを無視したことがはっきりしたとき、日本は開戦にでた。