社員と腹抱えて笑える会社に 兄貴肌のバブルの寵児 ジェイグループホールディングス 社長 新田治郎

京都の名家を飛び出し、一代で上場企業を築き上げた。外食業を手掛けるジェイグループホールディングスの新田治郎社長(52)は今年、満を持してニューヨークに出店。「楽しかったらええやん」という行動原理のもと、兄貴肌の経営者は従業員を引き連れ、世界展開を目指す。

由緒ある呉服屋で祖父を当代、父を次代と呼び、自分たちと住む場所、食べる物も違う厳しい家庭に育った。「15歳で『丁稚(でっち)奉公せえ』言うんですよ。今や死語ですやん」と苦笑い。厳格なしつけに不自由さを感じた。次男のため新田家の頂点には立てないと中学生にして達観もし、家業と違う道を選ぶことに。親に打ち明けると失望を買い、独り屋敷の外に住まいを移された。

お金はなかったが自由を得た。1985年、東京での成功を夢見た18歳は、友人の車に揺られて夜道を走り、勤める当てもないまま、ほぼ裸一貫、新宿アルタ前に降り立った。上昇志向でハングリーだった。さまざまなアルバイトで食いつないだ。パブで働き、モデルやダンサーもやった。そんな中、巡り合ったのがディスコだった。

一世を風靡(ふうび)した「マハラジャ」で数年の下積みの末、再建を託された長野、金沢両市の店の業績を急回復させて頭角を現し、名古屋市など東海地区を統括する系列の中核企業の社長に抜てきされた。弱冠24歳で部下500人。バブル景気を体現するように出世し、いわゆる「黒服」の中でも新たな「帝王」と持てはやされた。

だがバブルの終焉とともにディスコブームも去った。親会社の経営が揺らぎ、新田さんの会社も共倒れとなった。慕ってくれていた部下たち。「こいつらを路頭に迷わすわけにはいかない」。そう思って97年に飲食の新事業を名古屋で始めた。だが、不慣れな飲食業は手探り状態で苦戦続き。借金が3億円にまで膨らんだ時、奥の手のディスコ関連事業に再び取り組んだ。すると旧知の上客らが戻り、会社は息を吹き返し、軌道に乗り始めた。2003年に目標だった東京出店、06年には東証マザーズに「ノーストレスで」上場した。

その後も大阪や仙台に出店を加速、勢いその視線は海外に向かった。今年5月にマンハッタン区に串揚げ店「山田チカラ ニューヨーク」を構えた。東京・麻布十番にも名を冠した店がある有名シェフ、山田氏を前面に押し出した。進出理由は明快。「だって世界一の都市でしょ」

新田さんは自他共に認める野球好きで、会社の硬式野球部が都市対抗戦に出場するほどの熱の入りよう。ニューヨークでは時間があれば野球観戦にいそしむ。

常に新店の候補地を探る新田さん。選定基準は「従業員が住んで働き、過ごした日々が『ええ時間やったな』」と思える場所かどうか。検討を進める。

新田治郎(にった・じろう)■京都市出身。1985年に高校卒業後、上京してディスコ「マハラジャ」に勤務。90年、系列の名古屋レジャー開発の社長に就任。97年にジェイグループホールディングス創業、2006年に東証マザーズ上場。18年5月、ニューヨークに出店。不動産事業やブライダル事業も手掛ける

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