「村上春樹を読む」(87)「小さな箱の中に入れようとするの」 「蜂蜜パイ」

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「神の子どもたちはみな踊る(新潮文庫)

 『神の子どもたちはみな踊る』(2000年)のうち最初の5作は雑誌「新潮」の1999年8月号から12月号まで、毎月雑誌掲載された短編ですが、最後の作品「蜂蜜パイ」だけは書下ろし作品です。でも本の巻末には「蜂蜜パイ」も含めて「連作『地震のあとで』その一~その六」とあるので、もちろん同じ連作として考えられた作品です。

 前回のこのコラム「村上春樹を読む」で紹介しましたが、この短編集の時間は、1995年2月に設定されています。この1995年2月というのは、1995年1月17日に起きた阪神大震災と、同3月20日に起きたオウム真理教信者たちによる地下鉄サリン事件との間にある月です。

 『神の子どもたちはみな踊る』の中の各短編の時間が1995年2月であることは、作中に記されており、この連作短編集が、阪神大震災以降の社会と、オウム真理教信者たちによる地下鉄サリン事件が起きる直前の日本社会というものが反映した作品群だということを示しています。

 例えば、表題作「神の子どもたちはみな踊る」には「夕刊の社会面は相変わらず地震関連の記事で埋まっていた」「二月の夜は散歩するには寒すぎる」とありますし、「かえるくん、東京を救う」は、かえるくんと片桐が闘って巨大地震を未然に防ぐ物語ですが、その「地震は2月18日の朝の8時半頃に東京を襲うことになっています。つまり3日後ですね。それは先月の神戸の大地震よりも更に大きなものになるでしょう」とあるのです。

 しかし、その『神の子どもたちはみな踊る』の最後に書下ろしの形で置かれた「蜂蜜パイ」は、阪神大震災直後を描いた作品であることははっきりしていますが、それが1995年2月であることが、作中に記されているわけではありません。

 ただ1年近く、村上春樹作品と、オウム真理教信者たちが起こした事件の関係を、このコラムの中で考えてきた者からすると、やはりこれは迫り来るオウム真理教信者たちによる地下鉄サリン事件を意識した作品であり、たぶん1995年2月という時に作品が置かれたものではないかと思えてくるのです。

 今回の「村上春樹を読む」では『神の子どもたちはみな踊る』の最後に置かれた「蜂蜜パイ」がなぜ、そのように読めるかということを書いてみたいと思います。

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 この作品が、阪神大震災後の世界を描いていることは、明確に記されています。沙羅という4歳の女の子が「神戸の地震のニュースを見すぎた」ためか「地震があったころから夜中に目を覚ますようになった」「沙羅は、知らないおじさんが自分のことを起こしに来るんだっていう」と沙羅の母親の小夜子が淳平に語っています。

 36歳の淳平はこの小説の主人公ですが、「なるべくニュースは見ないことだね」「テレビそのものもしばらくはつけない方がいい。今はどこのチャンネルでも地震の映像が出てくるから」と小夜子に応じています。

 ですから、阪神大震災から間もない日々を舞台にしていることは明らかなのですが、でも、前述したように、1995年2月を示す言葉がはっきり記されているわけではないのです。

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 「蜂蜜パイ」は仲良し3人組の話です。「小さく親密なグループを形成」「いつも三人で行動」していたという早稲田大学の同級生の淳平と小夜子と高槻の物語です。

 淳平は小夜子のことが好きなのですが、受動的な性格で、その愛を告白できずにいます。その間に高槻と小夜子が関係してしまい、2人が結婚、高槻と小夜子の間に沙羅が生まれるのです。

 「もし高槻より先に自分が小夜子に愛を告白していたら、事態はいったいどんな風に展開していたのだろう? 淳平には見当もつかない。彼にただひとつわかるのは、そんなことはどう転んでも起こり得なかったという事実だけだった」と記されています。

 でも、淳平と小夜子は親しい友人であり続け、新聞記者となって帰宅が明け方の場合もある高槻が不在の時には、小夜子が淳平に電話をかけてきて、最近読んだ本の話や互いの日常の話をしていますし、淳平は沙羅の名づけ親にもなっています。

 そして、沙羅が2歳の誕生日を迎える少し前に、高槻に恋人がいることを小夜子から、淳平は打ち明けられるのです。その数カ月後、小夜子と高槻は離婚してしまいます。

 こんな経過の後、沙羅が「神戸の地震のニュースを見すぎた」ためか、寝られなくなってしまった夜に、小夜子は淳平を呼んで来てもらったのです。

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 この「蜂蜜パイ」という作品は、村上春樹のファンたちの間で、同作を「たいへん好き」という人が多い一方で、「いまひとつ……」という人もいます。私の周辺でもそうです。「いまひとつ……」という人の感想は、「蜂蜜パイ」の題名にも表れていますが、『神の子どもたちはみな踊る』の中で一番甘い味の物語のように受け取られていて、その「甘い味」がどうも「いまひとつ……」ということのようです。

 加えて、他の作品は、例えば「かえるくん、東京を救う」が典型的ですが、リアリズムではなく、どこか現実とのズレを含んだ奇妙な味の小説になっています。「UFOが釧路に降りる」では、UFOが釧路に降りてきました。

 これに対して、「蜂密パイ」は、この小説で書かれたことが、そのまま起きたと考えても矛盾のないリアリズムで書かれています。そのリアリズムではない方法で描いていく村上春樹作品を愛する読者には、どうも「甘い味」の作品のように感じられるようです。

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 でも「蜂蜜パイ」は基本的にリアリズムで書かれていますが、同作の中には<これは何だろう>と考えさせる言葉が記されています。例えば、沙羅が生まれて、「何はともあれ、これで俺たちは四人になった」と言って、高槻が軽い溜息(ためいき)のようなものをつきます。さらに「でもどうだろう。四人というのは、はたして正しい数字なのだろうか?」とあります。

 私は、村上春樹作品に記される数字「四」について、いろいろ考えて、このコラムの中で何度か書いています。ですから「四人というのは、はたして正しい数字なのだろうか?」についても、私らしい考えはありますが、それは別な機会に記してみたいと思います。

 その代わりに、もう1つの<これは何だろう>について記してみたいと思います。それは、沙羅が話す「知らないおじさんが自分のことを起こしに来る」という「地震男」についての話です。

 小夜子によると、その地震男は「沙羅を起こしに来て、小さな箱の中に入れようとするの。とても人が入れるような大きさの箱じゃないんだけれど。それで沙羅が入りたくないというと、手を引っ張って、ぽきぽきと関節を折るみたいにして、むりに押し込めようとする。そこで沙羅は悲鳴を上げて目を覚ますの」というのです。

 この「小さな箱」とは何か。「とても人が入れるような大きさの箱じゃない」、その「小さな箱」とは何かということが、今回の「村上春樹を読む」で書きたい<これは何だろう>です。

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 話をわかりやすくするために、私の考えを記してしまいたいと思います。これはここ何回か書いている、オウム真理教信者たちの姿を通した「箱」についての村上春樹の考察なのではないかと思っています。『約束された場所で』(1998年)の巻末の臨床心理学者・河合隼雄さんと村上春樹との対話で語っていた、あの「箱」を巡る村上春樹の考察です。

 「僕らは世界というものの構造をごく本能的に、チャイニーズ・ボックス(入れ子)のようなものとして捉えていると思うんです。箱の中に箱があって、またその箱の中に箱があって……というやつですね。僕らが今捉えている世界のひとつ外には、あるいはひとつ内側には、もうひとつ別の箱があるんじゃないかと、僕らは潜在的に理解しているんじゃないか。そのような理解が我々の世界に陰を与え、深みを与えているわけです」

 そんな村上春樹の考えです。人間は本来的に、箱の中に箱があって……、あるいは世界のひとつ外には、あるいはひとつ内側には、もうひとつ別の箱があるんじゃないかという理解です。それなのに、オウム真理教信者たちは「箱ひとつ分でしか世界を見ていないところがあります」と村上春樹は発言していました。

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 おそらく、沙羅を起こしに来て、小さな箱の中に入れようとする地震男の箱とは、このような多重的な箱の在り方を消し去って、1つの箱しかない、という考えのものでしょう。「とても人が入れるような大きさの箱じゃない」とは、本来、人間が持っている「ひとつ外には、あるいはひとつ内側には、もうひとつ別の箱がある」という世界を否定していく、たった1つの小さな箱のことだと思います。

 沙羅を「小さな箱の中に入れようとする」地震男の「小さな箱」というものに、オウム真理教信者たちの姿が投影されて、記されているのではないかと思うのです。

 「蜂蜜パイ」は、淳平が小夜子と沙羅を護るために寝ずの番(不寝番)について「でも今はとりあえずここにいて、二人の女を護らなくてはならない。相手が誰であろうと、わけのわからない箱に入れさせたりはしない。たとえ空が落ちてきても、大地が音を立てて裂けても」という文章で終わっています。

 ですから、人が入れないような「小さな箱」とは何かが、この作品の重要な意味を持っているわけですが、私は、この「小さな箱」「わけのわからない箱」は、オウム真理教信者たちと繋がっている箱なのだろうと考えているわけです。

 オウム真理教信者たちによる地下鉄サリン事件が起きる予兆をはらみ、そのような「箱ひとつ分でしか世界を見ていない」人たちの世界から、我々の世界を護らなくてはいけない。そんな決意が記された「蜂蜜パイ」の最後の文章なのです。

 つまり、この作品は、地震男が現れる阪神大震災後の世界であり、これから起きる「小さな箱」「わけのわからない箱」「箱ひとつ分でしか世界を考えない人たち」と闘う決意が記されているわけですから、やはり、これは阪神大震災とオウム真理教信者たちによる地下鉄サリン事件との間に挟まれた1995年2月の物語ではないかと私は考えているのです。

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 さて「蜂蜜パイ」が「たいへん好き」な村上春樹ファンと、「いまひとつ……」という村上春樹ファンがいることを書きました。「あなたは、どちらなの?」と聞かれそうですね。私は、この「蜂蜜パイ」という作品をとても好きです。その理由を記しておきたいと思います。

 この作品には「ブラはずし」という場面があります。読む度に、素晴らしい場面だと思うのですが、それはこんなふうに描かれています。

 物語の後半、小夜子と淳平が話していると、沙羅がやってきて「ねえママ、ブラはずしをやって」と言います。

 読者も<「ブラはずし」って、何だろう?>と思います。小夜子も赤くなって、「駄目よ。お客様がいる前でそんなことできないでしょう」と沙羅に言いますが、「変なの。ジュンちゃんはお客様じゃないよ」と応じると、読者と同じように、淳平も「なんだい、それ?」と小夜子に質問するのです。

 「くだらないゲームなの」と小夜子は言いますが、沙羅の説明によると、次のようなことです。

 「服を着たままブラをはずして、テーブルの上に置いて、それをまたつけるの。いっこの手はいつもテーブルの上に載せておかなくちゃいけないの。それで時間をはかるの。ママはすごくうまいんだよ」と沙羅が言います。

 小夜子は困惑していますが、「でも面白そうだ」と淳平が言い、沙羅も「お願い。ジュンちゃんにも見せてあげて。一度でいいから。やってくれたら、沙羅もすぐにベッドに入って寝ちゃうから」と話すので、「しょうがないなあ」と小夜子が言って、「ブラはずし」を始めるのです。

 黒いクルーネックのセーターの下で、片方の手だけを操りながら、ブラをはずして、テーブルの上に置き、すぐまた、それをつけて、両手をテーブルの上にそろえるのです。

 「25秒」。沙羅は驚いて「ママ。すごい新記録だよ。いちばん早くて36秒だったのよね」と手を叩(たた)いて言います。

 「さあこれでショータイムはおしまい。約束通りベッドに入って寝なさい」と小夜子が沙羅に伝えると、沙羅もベッドに行って寝るのです。

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 この「ブラはずし」の場面の素晴らしさは、この後の淳平と小夜子の会話にあります。「実を言うと、私はずるをしたの」「ブラはつけなかったの。つけるふりをして、セーターの裾から床に落としたの」と小夜子が告白します。「ひどい母親だ」と淳平は言いますが、さらに小夜子は、このように言うのです。

 「だって新記録が作りたかったんだもの」と。

 それまでの小夜子の語り口は、結婚も出産もし、さらに離婚も経験した30代半ばの女性の話し方です。「駄目よ。お客様がいる前でそんなことできないでしょう」と沙羅に言う小夜子の語り方が典型的ですが、でもこの「だって新記録が作りたかったんだもの」と言う時の小夜子は、まるで学生時代の会話のように、若返っています。小夜子の新記録によって、小夜子と淳平の関係は更新され、2人が出会った時のような新しい小夜子と淳平になっているのです。

 そして、淳平は小夜子の肩に手を伸ばし、小夜子もその手を握って、2人は関係するのです。

 淳平は、受け身の人間で、好きな女性にも、好きだと言えないタイプの人間です。好きな女性となかなか関係できない、ある意味で<うじうじした人間>と言えるかもしれません。好きな女性と長く友だちでいることはできても、ほんとうは大好きな女性に「君を好きです」と言えない人間です。好きな女性と、なかなか関係できない人間なのです。読んでいると、じれったくなってくる読者もいるかもしれないタイプです。でも決して、悪い人間ではありません。むしろ、素敵な人間です。

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 こんな、長年、友人関係にあった男女をどうやったら、関係させることができるのか……。こういうことは、実はとても難しいことではないかと思っています。そんな男女をうまく結び付けることに成功している小説でも(それも決して多くはありませんが)、たいがいは、その男女が出来事・事件に巻き込まれるという形が多いかと思います。

 でも、淳平と小夜子が初めて関係する、この場面で、2人が事件に巻き込まれているわけではありません。物語の運び、小説の描き方だけで、2人がごく自然に関係していくように、読む者が納得できる形での淳平と小夜子の性の場面なのです。淳平のようなタイプの人物は、いい加減な形で小夜子と関係できない難しい主人公だと思います。小夜子も間違ったことができない人間です。その難しい者同士を自然に関係させることに成功しているのです。

 もちろん、「ブラはずし」という下着をはずすゲームですから、性の関係の予兆に満ちています。間違ったことができない小夜子が「ずる」をしています。でも、すごく自然に、淳平と小夜子を若返らせて、2人を更新し、関係させているのです。

 小説を読む楽しみのひとつは、こういう人間の精神世界(淳平の中には、逡巡も含めて、いくつも箱があることがわかります)と、その人間の肉体性の面が、自然の運びで繋がった、このような場面に出会うことです。普遍的な問題を素敵に描いた名場面です。

 しかも、村上春樹は、この「だって新記録が作りたかったんだもの」という小夜子の言葉の意味をしっかり作中で書き留めています。

 その小夜子の言葉に続いて「小夜子は目を細めて笑った。それほど自然な笑顔を彼女が見せたのは久しぶりだった。窓辺のカーテンが風にそよぐように、淳平の中で時間の軸が揺れた」と書いています。2人が抱き合って、唇を重ねると「19歳のときからものごとは何ひとつ変わっていないみたいに思えた」と書いています。2人は一度、唇を重ねたことだけはあったからです。

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 でも2人の初めてのセックスは、起きてきた沙羅によって中断されてしまいます。沙羅は「地震のおじさんがやってきて、さらを起こして、ママに言いなさいって言ったの。みんなのために箱のふたを開けて待っているからって。そう言えばわかるって」と2人のほうを向いて言うのです。

 沙羅と小夜子が2人で寝たあと、淳平は「彼らは箱のふたを開けて待っているのだ。背筋のあたりに寒気がして、それは時間が過ぎても去らなかった」と思うのです。

 そして物語の最後、「箱のふたを開けて待っている」彼らとの闘いの決意と覚悟が、前述したように記されて「蜂蜜パイ」は終わっているのです。淳平は小夜子と関係して、ハッピーエンドではなく、小夜子と沙羅を護るために、これから闘わなくてならないのです。

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 『神の子どもたちはみな踊る』の冒頭にある「UFOが釧路に降りる」について考えた前回のコラム「村上春樹を読む」を読んだ人にはわかるかと思いますが、「UFOが釧路に降りる」も、小村という主人公が小さな箱を釧路まで運ぶ話でした。

 小村の妻は阪神大震災が起きると5日もテレビの映像を見続けて、山形の実家に帰って行ってしまいました。「蜂蜜パイ」の沙羅も地震のテレビ映像を見すぎて、真夜中過ぎにヒステリーを起こしてとび起きますので、『神の子どもたちはみな踊る』の冒頭と巻末の作品が対応して書かれていることがわかります。

 さらに「UFOが釧路に降りる」にも「熊」の話が出てきますし、「蜂蜜パイ」も「熊のまさきち」を巡るお話を淳平が即席でこしらえて、沙羅に話してあげる場面から物語が始まっています。鮭を捕るのがうまい「とんきち」という熊の話がありますし、「UFOが釧路に降りる」にも鮭の皮の話が出てきます。両作を読み比べてみると面白いと思います。

 また「熊」は、村上春樹にとって、特別な動物のひとつですので、考えてみたいこともありますが、今回も既に、かなり長いコラムとなってしまいましたので、それはまた別な機会にしたいと思います。(共同通信編集委員 小山鉄郎)