廃線が決まった敦賀港線、欧亜国際連絡列車が発着した敦賀港駅へ…新幹線開通前夜の敦賀は青春18きっぷ旅で訪ねてみて 

「21号 進路確認せよ」

ちょうど4年前。2015年の1月はじめ、内閣府の仕事で石巻から次の現場、敦賀へむかったときの休み時間を思い出す。

敦賀港の東側、金ヶ崎公園の丘の西側には、錆びた線路が束になったヤード。「21号 進路確認せよ」という錆びた看板のむこうに、80年ぐらい前まで旅客用ホームがあった。

ここがかつての金ヶ崎駅、現在の敦賀港駅。線路は敦賀港線(北陸線支線)。

4年前に訪れた日、視察担当レポート初稿の冒頭には、こう記した。

「1900年代初頭、日本とその西に広がる“大陸”を結ぶ航路の拠点として繁栄した港のほとんどが、日本海側にあった。その代表的な地が、長崎・下関・敦賀だ」

ここ敦賀港には、北陸線と東海道線を走って東京を結ぶ、欧亜国際連絡列車が走っていた。

100年前、金ヶ崎駅(敦賀港駅)の旅客ホームには、船でウラジオストクへと渡る客でにぎわった。

彼らは鉄路でハバロフスク、イルクーツク、モスクワを経て、ヨーロッパ各地へとむかった。

そして、金ヶ崎駅が1882(明治15)年に開業してから137年のときを経て、JR貨物は、北陸線 敦賀~敦賀港(敦賀港線)2.7kmを廃止することを決めた。廃止日は、2019年4月1日。

<欧亜国際連絡列車が発着した敦賀港線、137年の歴史に幕_2019年4月廃止>

4年前、視察団との昼食のあと、敦賀港線の客をむかえいれた小さな繁華街の跡地を歩く。

気比神宮から北側、敦賀港線の西側には、小さな小料理屋やスナックが、ぽつんぽつんとある。

日が暮れて、店を何軒か。敦賀駅前のホテルに泊まって夜更けまで呑んでみたかったけど、次の視察現場が「翌朝に京丹後集合」ってことで、あきらめた。

視察担当レポート初稿の最後には、こう記していた。

「さて、1900年代前半に大陸への玄関口として栄えた敦賀はいま、新しい局面をむかえようとしている。8年後の2023年には、北陸新幹線の金沢と敦賀の間が開業し、東京と敦賀の間が2時間台で結ばれる。大陸へと向かう汽船や欧亜国際連絡列車へと乗り継ぐ旅人たちでにぎわった街に、100年の時を経て、日本が誇る新幹線がやってくる」

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