沖縄、東京駅、敷設艦「常磐」…空襲の爪痕が克明に 終戦直後を伝える写真

©株式会社沖縄タイムス社

 終戦間もない頃の旧那覇市役所の塔の一部を撮影したとみられる写真は、他の12枚の写真とともに残されていた。空襲などの被害を受けた那覇市の天妃国民学校(現・天妃小学校)とみられる写真や、同じく空襲の被害に遭った東京駅などの写真が含まれていた。戦後の様子や戦争による被害を伝える貴重な記録だ。(社会部・岡田将平)

 

「国内初では」の写真も

 写真の1枚は赤れんがの東京駅丸の内駅舎を撮影したもの。鉄道博物館(さいたま市)によると、同駅舎は1945年5月の空襲で3階部分が焼失し、45年10月から47年3月に復旧工事が行われた。

 同館によると、写真では、復旧工事で取り壊された3階部分の一部が残り、工事用の足場らしきものが見えることから、復旧工事中とみられる。外套(がいとう)を着て歩く人たちの姿が写っていることから、45年から46年にかけての冬場の写真とみられる。

 駅舎には「RTO」の文字も見える。日本を占領した連合軍が利用する駅に設置された鉄道輸送事務所を示す。同館は「戦後すぐの丸の内駅舎の様子をうかがい知ることができ、貴重ではないか」とした。

 日本海軍の基地があった青森県むつ市の大湊地区で撮影されたとみられる写真は7枚あった。海軍史に詳しい飛内進さんによると、そのうち1枚は45年9月26日に米軍が大湊にあった日本海軍の潜水艦基地隊の建物を休養施設とする際に、星条旗を掲揚した式典の写真という。

 別の1枚は、日本海軍の機雷敷設艦「常磐」が写る。常磐は日露戦争にも参加した軍艦で、長崎県佐世保の軍港に在籍。津軽海峡への機雷の敷設の任務中だった45年8月9日に大湊沖で米軍の攻撃に遭い、動けなくなったという。飛内さんは「この写真は国内初ではないか」と指摘する。

 

那覇の街並み「情緒あった」 当時を振り返る

 那覇市の新城喜一さん(85)は、子どもの頃、市役所の塔に上ったことがある。中はらせん階段になっていたという。「高い」という印象が残る。近くにはそば屋があったという。

 写真では跡形がなくなった街の姿が写るが、新城さんの心には、一帯を遊び回った時の鮮やかな記憶が残る。新城さんは、同市西本町(現・西など)で育ち、後に天妃町(現・久米など)に移った。学校から帰ると、かばんを放り投げて、街に出た。近くに映画館が二つあり、こっそり入って、時代劇などを見た。市役所の塔に入ってみたのも、好奇心からだった。

 太平洋戦争中は、塔から空襲警報や警戒警報が鳴ったという。1944年10月10日、飛行機が上空を飛んでいるのを見た。日本軍と思い、「今日の訓練はすごいな」と思っていたら、爆弾を落としてきた。家族と避難し、現在の同市安里付近で振り向くと、真っ黒い煙が上がっていた。戦後、もともと暮らしていた街を見た時には「さみしい感じだった」という。

 戦後、映画の看板描きをへて、沖縄芝居の舞台美術の仕事をした。戦前の写真を参考にして、芝居の舞台となる戦争より前の風景を描いてきた。「戦前は沖縄らしい情緒があった。素晴らしい風景だった」と懐かしむ。

破壊の跡が残る天妃国民学校とみられる建物
戦災からの復旧工事が始まった頃の東京駅丸の内駅舎
空襲を受けた日本海軍の機雷敷設艦「常磐」