【写真特集】
日本の五輪史をテーマとするNHKの大河ドラマ「いだてん」が1月6日から始まった。脚本は多くのヒットドラマで知られる宮藤官九郎氏。前半は箱根駅伝の創始者で日本初の五輪マラソンランナー金栗四三氏(中村勘九郎さん)、後半は東京五輪招致に心血を注いだ田畑政治氏(阿部サダヲさん)が主役だ。初回は、柔道創始者の嘉納治五郎氏(役所広司さん)がスポーツ愛好会「天狗倶楽部」の青年たちに翻弄されながら日本の五輪初参加を目指す明治末期、五輪誘致に成功する昭和30年代のシーンを交互に描いた。テンポよく細部にもこだわり、見た人の心をつかもうとする「クドカン」ドラマ。これまで大河のメインにはならなかった人物群像にスポットを当てた作品となりそうだ。コミカルな役回りとなった「いだてん」版の嘉納氏だが、嘉納氏からその後継者たちの「やわら」の系譜をみていきたい。(共同通信=柴田友明)
「明治怪人伝」
日本の五輪デビューとなった1912年7月のストックホルム大会。選手団長は嘉納氏だった。選手はわずか2人(金栗四三氏、三島弥彦氏)ながら、開会式でシルクハットを手に 晴れやかな表情で行進する団長の姿が2枚目の白黒写真から見て取れる。50歳を超えた柔道の創始者は、黎明期の日本スポーツ界を国際舞台に押し上げる役割を担っ た。
「天狗倶楽部」ができたのはその数年前、作家の横田順彌さんが1995年~96年に共同通信配信記事「明治怪人伝」を連載、そこで「天狗倶楽部」に詳しく述べている。
「明治42年(1909年)5月、日本SF(科学小説)や冒険小説の祖・押川春浪を中心に、ユニークな社交団体が生まれた。メンバーは超豪華で、春浪のほか、(中略)、三島弥彦(日本最初のオリンピック選手)、前田光世(柔道六段・グレイシー柔術の祖)・小杉未醒(画家)、倉田白羊(同)、尾崎咢堂(政治家)など、100人ほどの集団で、昭和初期まで存在した」
【写真特集】
ブラジリアン柔術の源流
「天狗倶楽部」のメンバーであり、嘉納治五郎氏の講道館の弟子、前田光世氏は米国に派遣され、異種格闘技戦で連戦連勝した。その後、ブラジルに移住して現地で柔道を教えたことが、ブラジリアン柔術のきっかけとなった。
横田氏の「明治怪人伝」では、次のように描かれている。
「早稲田中学(現・早稲田高等学校)に入学した。ここで柔道を覚え、後の早稲田大学野球部の主将で早慶戦の花形選手である押川清と知り合い、当時、小石川の富坂下にあった嘉納治五郎創設の講道館に押川とともに入門した。(中略)前田は国外に柔道を広めたいという希望を持ったようだが、そこに朗報が舞い込んだ。柔道好きのアメリカ大統領セオドア・ルーズベルトが大使館を通じて、師範派遣を要請してきたのだ。そこで選ばれたのが、富田常次郎(「姿三四郎」の作者・富田常雄の父)と前田だった」
「晩年はブラジルに帰化。柔道指南のかたわら、アマゾン地帯の開拓に全力を尽くし、アマゾンを訪ねる日本人で前田の世話にならない者はいないというほど、よくめんどうを見た。昭和16年には、日本への凱旋帰国も計画されたが持病の腎臓炎が悪化し、2月18日、63歳の生涯を終えた」
【写真特集】
大陸に広がった「やわら」
一方、「天狗倶楽部」が注目されていた同じ時代。明治から大正、講道館で嘉納氏から学んだ弟子の中に、ロシア人たちもいた。その中の一人、ワシリー・オシェプコフ氏 がロシア柔道の礎を築くことになる。
このオシェプコフ氏が伝えた柔道がロシア革命後のロシア、旧ソ連に急速に伝わる。柔道愛好家でもあるプーチン大統領はその系譜につながる。また、嘉納氏から薫陶を受けて柔道の源流を探求して、合気道 など柔術の技に魅了される武道家もいた。やわらの伝道師とも言える前田光世氏がブラジルで柔道を伝えたように、「やわら」の系譜はアジア大陸にも広がった。
筆者が2年前に「日ロ柔道物語」として取材・執筆しているので、当時の記事をそのまま紹介したい。嘉納治五郎が創始した柔道、日本の武道家たちが受け継いでいった「やわら」の伝播の一端が分かるかもしれない。
【やわらの語り部たち 日ロ柔道物語】
「機動戦士ガンダム」で知られる漫画家、安彦良和氏は90年代から近現代史題材にした作品も手掛けてきた。「虹色のトロッキー」「王道の狗」「天の血 脈」というタイトルで、明治から昭和初期の日本と大陸をめぐる人間群像を描き
続けた。
実在の武道家たちも登場。格闘シーンでは、合気道、柔道家が放つ武技の筆致で、多くの読者を引き付けた。埼玉県の安彦氏の自宅を訪ねた。どういう視点で史実からテーマを選び、武術の使い手たちをストーリーの中で展開させたのか聞いた。
「どちらでもないものを描きたかった」。満州国を舞台にした人気作「虹色の トロッキー」に取り組んだ気持ちを、安彦氏はそう表現した。作家が満州につい て物語にする時は二つに大別できるという。ひどい侵略行為だったと、悲劇と不正義を告発、後悔の念を込めて描く。もう一つは大陸に沈む夕日とか、馬賊もの と称される血湧き肉躍る活劇とするか。「両方とも何か取りこぼしている。日本 にいては満たされない情熱に身を委ねるかたちで満州に身を投じた世代の気持ち を描きたかった」と語った。
安彦氏は「等身大の主人公に視点を置きながらも、政治的満州を同時に見渡し たかった。(満州国の)建国大学という舞台とは、そういう意図の手探り作業の 中で巡り合った」と作品の後書きで述べている。主人公をやわらの使い手として 登場させる発想も自然に湧いたという。
満州国の最高学府として新京(現在の長春)に設立された建国大学。
日本、中国、モンゴル、ロシアなど出身の違う学生たちは全寮制の中、比較的自由な校風 で学んだとされる。教授として武道を教えたのが富木謙治氏だった。講道館の嘉納氏、合気道開祖の植芝盛平氏から学び、2人から目をかけられた実力派で、安彦氏は作品で学生たちに稽古を付ける場面を描いている。
「なかなか難しくてね…どういうふうにあれをやったらいいか」。富木氏は1 936年、満州に渡る前に訪ねた嘉納氏から、柔道の将来を見据えた話を聞いた。 競技化が進む半面、創始者だからこそ痛感する姿勢の乱れや形の崩れ。柔術に備わっているものを柔道にどう取り戻すか。師の懸念や課題を富木氏は聞いた。2年後、嘉納氏は77歳で亡くなった。一方、満州国と相対するソ連では、講道館 出身のオシェプコフ氏が伝えた柔道が急速な勢いで赤軍などに広まった。
オシェ プコフ氏も師と同じ時期に世を去る。彼の柔道をベースに新たな格闘技の研究が 進み、「サンボ」というロシアの国技として結実した。
戦後15年の1960年、早大道場で稽古に励む1人の学生がいた。
後に首相となる小渕恵三氏は富木氏から合気道を学んだ。シベリア抑留を経て、帰国した富木氏は早大柔道部の師範を務め、58年に合気道部を設立した。発足間もない 部の写真を見ると、小渕氏が「正面当て」と呼ばれる合気道の技をかけていることがはっきりと分かる。
「鈴木君、思いっきり突いてこい」。63年、東京・青山の練習場で小渕氏は 相手の攻撃を誘った。この年、衆院議員に初当選した小渕氏は稽古によく通って いた。バンバン投げられたと思い出を語るのは鈴木邦男氏だ。後に新右翼の民族派団体「一水会」代表を務めた鈴木氏はまだ学生で習い始めだった。
60年安保の国会の乱闘も記憶に新しい時代、小渕氏は当時、相手を殴打しない護身術の鍛錬として合気道を続けていた。意外な一面だ。
【写真特集】
2000年7月の沖縄サミットは、首相となった小渕氏が沖縄での開催に意欲 を示して実現した。就任間もないプーチン大統領は日本での外交デビュー。現地 で子どもの柔道大会に来賓として招かれ、ワイシャツ姿で飛び入り参加して喝采 を浴びた。だが、双方の出会いはなかった。その3カ月前に小渕氏は現職のまま 急死。森喜朗氏が後を継いだ。
やわらの系譜につながるトップ同士の会談は幻となった。
(共同通信=柴田友明)